読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

酒の井戸

アルコールの海に溺れながら考える世界のいろいろな出来事。または箱庭的な自分のこと。

記憶について

 1

 

  えーいろいろと便利な世の中で。便利ってのは良いもので、まあ、いろいろな事・物が容易くなってしまう。例えばあたしには東京に友人が幾人か居て、今あたしは都を離れております故、なかなか会うこともままなりません。が、今時分ですとスカイプだの・・あのテレビ電話みたいな物が御座いますでしょ。これでほぼ会っているかのように相手の顔を見て会話が出来るってんだから、まあ驚き桃ノ木。まったく科学技術のありがたさを感じる今日この頃で。・・例えばこれが江戸時代ともなれば、そうですな、実際あたしんとこから、こう「江戸に居るあいつの顔が見たいな」なんぞ思い立って、そいでそのあいつと言葉を交わすには、甲州街道をずっと上って、寝ずに歩いたって大よそ三日はかかるのではないかと思うのです。

 

 それが、だから今となりゃ件、テレビ電話でスイッチポンですから、まあ世の中というのは摩訶不思議、複雑怪奇、SF(すこし・ふしぎ)式に運航しておって、思ったことが思うままにとりとめもなく結実してしまう。

 

 

 しっかしな、あたしはひねくれ者で御座います故・・でも、だからと・・これは、ある半面から見れば「ベンリだ、ナウい」とか成りますけど、また別の方面から見ると不便であったりするのではないか?なんてことを思ってしまうのであります。

 

 例えば、物事の全てが容易いとなりますってぇーと、まああまりにも全てに対して無感動になりますでしょ?例えば、先の例をとってあたしが都内に居る友人に会いたいと思い立って草鞋を履いて三日三晩歩いたとしましょう。

三日三晩歩きに歩いてたどり着いた都で落ち合う友人――これの名を山田源三郎長吉と申しまして、商いは大工で、外じゃぁ少し名の知れた棟梁だなんだと随分持ち上げられておりますが、宅に帰ればかかあの尻に引かれ子供に笑われるって絵に描いたような中年男で――の顔ったら、そりゃぁどんな不細工な面体の奴でも、まま光輝いて見えそうなものですが、これが現代式にスカイプでぽちっとポンとなりますってーと、まー件山田某の禿げかかった面体を見て後光はとても・・・。

 

 いえな、禿げて居れば後光は差しまっしゃろ、とか、そーゆー話ではなくって。

 

 2

 

記憶というのは失われないといつか聞きました。記憶ってのは箪笥にしまわれた衣類の如く脳内に静かに眠っている。そしてこの記憶を「思い出す」って行為は、この箪笥の引き出しの引き出しやすい順に導かれるらしいんですが。

 

 これがつまり重要で。

 

 記憶という箪笥に内蔵している情報を開けて取り出す際の取っ手、とっかかり、引き出し、みたいな物は要するに当人の震え、バイブレーション、印象に起因していると。

 

 感情の震えとでも申しましょうか。

 

 例えばあたしはもう二十年か前に東京は世田谷美術館で観たムンクの『思春期』という絵を、またその絵が展示されていた会場の空気、匂い、人々がまるで馬鹿みたいに芋虫の行列を作って巡ってゆく波の中で、僕はたった一人心を射抜かれ、震えるようにしてそこに立ちすくむしかなかった当時の孤独感みたいなものもひっくるめて、情景を未だにありありと脳内で再生することが出来るのです。

 

 しかし、この記憶もやがては色あせ失われてゆくのでしょうな。

 振動ってのは、はじめ大きくやがて薄れますから。

 

 最近の記憶の箪笥はそりゃぁ開きやすう御座いますでしょうな。しっかししばらくの後の箪笥は、やがて立て付けが悪くなり、そして開けることが難しい。

 

 あのな、そーゆーことを考えてみるに、便利になるって事の不便さを、ふと思ってしまうのです。

 

 何事も、当たり前のように容易く出来てしまうと、それは記憶として再生しにくくなる。

 

 3

 

 例えばアータ、二本足で立つ、歩くって行為はなかなか大変で御座いましょ?人が満足に歩けるようになるのは、一体何歳くらいでしょうか?あたしには甥が二人いて、下が今二歳ですが。これがようやくと二足歩行に慣れてきたとみえます。よちよちで一歳過ぎくらいですかね。

 歩くってのは全身運動ですから、これこっち、例えば頭から方からずっと下まで、バランスの塩梅を張り巡らせて上手く調整しつつてのはほんらい高等技術で、人として一年以上の修練が必要になる。・・・本来ものすごい高等技術であり、感動的なほど面倒くさい作業である「歩く」という行為は、しかし我々にとっては当たり前の行為過ぎて、もはやイチイチ歩くって行為が記憶に残ることは無いでしょ?

 

 そこですよ。

 

 現代科学。技術が便利すぎる故に、本来出来ないことが当たり前にできるようになってしまった。が故に、本来二足歩行が超技術なのに当たり前のものとしてスルーするような感覚で、例えばテレビ電話を当たり前のものとして友人に会う感動が薄まり、そしてやがて消えてしまうのでしょう。

 

 何なのですかな。

 

 便利であるがゆえに、この便利さに何となく一抹のむなしさを覚える。

 

 

風邪に落ちた魔の真のつれづれ

 

 お寒うございます。

 

 相変わらずの無沙汰さんで。

 

 えー、風邪をひいておりました。

 

  体温計で測ってみると、針が指すのは三十七度の中ごろの。これを幼い微熱と言うのでしょうか?いえ、あたしゃ、もうとても・・十二分に年を重ねております故、そうは申しませんが、まま、アンニュイなまま下げられない熱に、焼かれておったと。

 それと、どうも気管支の辺りがな、こう何やら不穏な・・。

 

 こっち二週間かずーっと、呼吸が難しいのであります。

 

 ともちゃんが、崖っぷちでヒューヒューと言ってる。

 ふるい青白いビデオの歪んだ録画動画で 。

 気管支が。

 コマーシャリズムな北風に吹かれて。

 なのに通気口の悪い気管支が風邪に詰まって、

 ヒューヒューと

 僕も喉もとでも、そう言っている。

 

 上、今ざっとポエムにするとそんな感じです。

 

 しっかし、呼吸てのはまま、生物レベルで基本的な活動であります故、それが困難だ、難しいってぇのはまあなぁ。よろしゅうござんせんワナ。そいで、あたしは以前も書きましたけど、数年前、超重度のアトピー疾患を患っていて、もう外へ働きに出ることもままならんてぇ時期が暫くありました。

 

ytugatakewo.hatenadiary.com

 

 

 そいであたしは元々東洋哲学とかが好きなもんですから、その時分に、(どうせ寝ているばかりでやることないし)自己治療もかねて、現代で言う気功ですとか、中医学、漢方、薬膳、なんて本を読み漁った時期がありまして・・もっともこれ等は、現在の・・いわば西洋的な視点で捉えている(捉えようとしている)が故に、いちいちジャンル分けして分類しておりますが、本来はこれら全てが混然と混ざりあって一であり、また全てであり・・実践こそが思想であり思想こそが実践であるところの哲学でもあり宗教でもあります故、まま、その中の何をとって何を勉強したって、こう物申すのは、片腹痛い感じもしますが、まあ、その時期はやがて薬膳と言われるジャンルの勉強に集中致しまして。ま、人並みか以上に薬膳についてあたしも知識が御座いましたが、いえ、それも早、今は昔。とうにとんと忘れて。そいで、だから。また今になってこう古いメモや本なんぞをまた広げて。薬膳スープなんかを作って、なんとかかんとか生きながらえた次第では御座いますが。

 

 

そう言えば、先だって書いた記事に。「黄昏時」の語源を「誰そ彼」にと求めたなんて、そんな説を紹介し。更にその上で、ナニブン大昔に読んだ本であり、甚だうろ覚えである故、出典は定かではないが、たしか柳田国男の物であったと思う・・などと、曖昧なまま断りを入れて、散らかしっ放しでお終いにしたと。

 

ytugatakewo.hatenadiary.com

 

 ああ、こちらで御座いますが。

 

 その事が、個人的に・・あの、後ろ髪引かれると申しますか、なんと言うか少し気に掛かっていたのですな。だが、それでもまあ、人は生きていれば日々の煩い事が右に左にと、殴りかかってくるもので御座いましょ?仕事だなんだと目の前に浮かぶあぶくの様に些末な事案を片付ける事にばかり気を取られてって・・・それだけならまだ宜しゅう御座いますが、あたしの場合それに加え風邪もひいて、仕事も数日お休みをいただいたりと。故に心残りながら、ほったらかしにしていたのであります。

  

 さてそれで。

 

 ようやく体調も、それでなんとか持ち直してと、それで今から書くのは、だからしばらく前の事で御座いますが。

 

 いえ、まずその前に。

 

 我が家というのは、両親と姉夫婦と、それからチビが二人。甥ですな。そいで、あたしが一人と。そういった家族構成で、また、生業と申しますか、あたしも姉の旦那も勤めに出てはおりますが、まま、我が家はとある屋号を看板に掛けました民宿なのであります。故に、家族も多いし、人の出入りも多い。また敷地もただ住むだけの皆様より、少しばかり広いのであります。・・もっとも家族がプライベートの場所として使えるのは、それほど広くはありませんが。まま、十人並みと言った程度で。

 

 えー、と以上、そんな前提条件を理解頂いた上での話であります。

 

 さあ、そんなこんなで、お話を続けましょう。

  

 それは霜月、十一月頭のある日の朝のはなしで。

 この頃ではいよいよ気温もぐんと下降し、いよいよ冬の足が近づいて、ちょうど温度計を見るとマイナス二度とそう針を指しておりました。それでストーブにと、ともし火に暖をとって。あたしがいつも通り、朝食に納豆をかき混ぜている時と思いねぇ。ガラリとキッチンのドアを開けしな、父親がこう申したのであります。

 

 「お前、きょう休みか?」

 

 「ああ、休みだよ」

 

 あたしが返します。

 

 父。

 

 「煙突、やりてーから時間あるか?」

 

 来たなと思いました。正直億劫だなとも。しかし我が家で暮らす者としては、まあこれは宿命のようなものであり、いちいち億劫がっても仕様が無いので、二もなく返答いたしました。

 

 「ああいいよ」

 

 我が家には薪ストーブて物が御座いまして。まあ冬に来れは非常に暖かで、石油や電気とは温まり方はもちろん、なんというかぬくもりが違います。だがしかし、この薪ストーブて代物は、その反面すすを起こし、故に煙突を詰まらせるのであります。

 

ですから、煙突掃除ってのは必須なのであります。

 

 が。

 

 しっかしこれが、実際やりだすってーなると、大騒動で御座います。

 

 かつて、かの英国の紳士、ルイスキャロル氏による『不思議の国のアリス』なる奇書には、トカゲの煙突掃除屋なるキャラが登場し、その男の名前はビルと申しました。こいつは不思議の某所白兎邸に於いてクッキーを食べた咎故巨大化し結果その宅を占拠した少女アリスを、煙突から引っ張り出すなどという・・まま、象の足を針の穴に通す的な無茶苦茶なミッションを、家主である白兎の要望で半ば無理やり引き受けた挙句、その使命かなわずに空しく、大女でありながら少女であるところの巨大アリスのくしゃみ一発で、三千世界の彼方へと昇天召されたという奇特なキャラクターで御座いまして・・よーするに煙突掃除ってのはそのくらいハイリスクな・・まま、これは西洋のお話でありますし、また所詮児童文学でしょ?とか言って・・いう御仁に。「ではそれならば」と日本文化圏と申しますか、いわば江戸ですな・・・江戸ってのはよーするに、江戸文化圏でありまして、そしてまた寿司に天婦羅にと、例が喰いもんばかりで申し訳ないが・・よーするに、今時分海外にザッツ・ジャポニズムなんぞと日本文化を紹介する上での要素って大抵江戸発祥で御座いますでしょ・・ああ、メシから離れて、例えば歌舞伎とかもね。

 

  まあ、その文化の種・・・歴史というのは、よーするに地続きで御座います故。やって遡ろうと思えば延々と遡れるので御座いますが、まま今日日、日本的な・・と言われる一連の様式の種が、芽吹きやがてすくすくと発展した時期という意味では、近現代日本文化において江戸というモノはかなり直接的な影響を持っているんじゃないか?と考慮したうえで、煙突小僧煤の介ですなぁ。

 

 あれ、アータ。煙突小僧煤の介を、ご存じない?

 そいつぁいけませんなぁ。

 

 

 英文学・・舶来外来文学に於いての煙筒家業の世知辛さを、件トカゲのビルに求めるならば、東の和の代表格としてそれを挙げるに煙突小僧煤の介しかありませんでしょう・・ってありませんでしょうも何もないのだが。

 

ううう。

 

 ・・・ただ単に煙突掃除の大変さを説得力持たせる為に、その論拠として用法合わせて洋邦二大煙突家業を提出しようとしたが、はなっから全くの迷走で、邦方の論拠として提出しようとした、この煤の介なる男。これが、落語の『湯屋番』なる噺に出てくる道楽が過ぎて勘当された若旦那のモーソーが作り上げたコマの一コマであるから、全く論拠としては乏しく、いや、いささかハナジラム。

 ・・・しかも僕はこの記事で別に煙突掃除の悲哀差を訴えたいのでもなくって・・えーと、だからもうスべてスっ飛ばしてスっと書きますけど、あのな、客間を跨いで屋根裏にのぼり煙突掃除をしていたんですよ。そしたら、いきなりバサッと落ちましたな。

 

 何が?

 

 本が。

 

 一体全体あり得ないじゃありませんか。そんな誰もめったに通わないような屋根裏に。ただ一冊の本があるてーのは。

 

 どうしてなのか?

 

 しかも、そのタイトルがあろうことか

 

『妖怪談義』。

 

 まるで不可思議な気分に捕らわれて。一旦躊躇したのち、やがてポケットにそれを入れて、そのまま掃除を済ませて黒い階段を下へ降りてみると、騒いでい居たのが、甥の二人。考えるに、家の甥は四歳と二歳で、件、上に書いたように我が家は民宿を営んでいる故、まあ、一般的な家屋より少しばかり建物が大きい。・・もっともこれは殆どが商用目的であります故、プライベートな区画は十人並みとお断りしておきますが・・しかし、四歳二歳の甥どもには、こっちがプライベート空間だの商用のだのとは、そんな区切りは関係ないのですな。ただ単に広い敷地を練り歩き、入り込み、探検ごっこか秘密基地。そいで・・おそらく僕がどこかで読み散らかしていいたのでしょう・・それを甥のどちらかが、気まぐれにむずっと掴み押入れの冒険よろしく屋根裏までたどり着き、そっとこれへ隠したのでしょう。

 

 が、しかし。

 

 まさにこの『妖怪談義』なる本こそが、いや先だってあたしが「出典は忘れてしまったが」と断りを入れた、そのタソガレドキの語源を、誰そ彼へ求める論拠であり。そしてやはりその著者は柳田国男だったのであります。

 

 タイミングの妙という物がありますな。なんと言うか人為の外の意志を感じてしまう瞬間というか、ちょっと大げさかもしれないけれど。なんと言うか、なんか伏線も併せてすべてが回収できたように歯車がかみ合う瞬間とか、もしくは何もかもが、どう段取りしていても、不思議不思議とすべてズレてしまうとか。

 

 なんと言うか、道理、理屈は証明できるけれど、何故今の今になってそれが起こるのかな?みたいな事ってありませんか?あたしにとっては、その天井裏に隠されて、古くシミだらけとくさくさになった『妖怪談義』なる本が、頭っからどさりと落ちてきて、それが先だってから求めて探してみたが叶わなかった柳田国男の例の一文のそれだと知ったとき、まるで不可解な、上に求める理屈は理解できるけれど、それで尚、得体のしれない気分にちょいとなったとだけ記して、以下、肝心の妖怪談義から問題の文章を引用して、今回はこれでおしまいにいたします。

 

 

「 古い日本語で黄昏をカワタレと謂い、もしくはタソガレドキと謂っていたのは、ともに「彼は誰」「誰ぞ彼」の固定した形であって、それもただ単なる言葉の面白味以上に、元は化け物に対する警戒の意を含んでいたように思う。現在の地方語には、これを推測せしめるいろいろの呼称がある。例えば甲州の西八代では晩方をマジマジゴロ、三河の北設楽でメソメソジブン、その他ウソウソとかケソケソとか謂っているのは、いずれも人顔のはっきりせぬことを意味し、同時に人に逢っても言葉を掛けず、いわゆる知らん顔して行こうとする者にも、これに近い形容詞を用いている。歌や語り物に使われる「夕まぐれ」のマグレ心持は同じであろう。」

 

 

 

 

新訂 妖怪談義 (角川ソフィア文庫)

新訂 妖怪談義 (角川ソフィア文庫)

 

 

より