酒の井戸

アルコールの海に溺れながら考える世界のいろいろな出来事。または箱庭的な自分のこと。

遅すぎた新年のあいさつ

今週のお題「2017年にやりたいこと」

 

 えー、七草ですな。余った餅を粥にぶち込んで、正月もこれで一応お終いという訳で御座いまして。ってまあ、のんびりとした昔とは時代が違います故、正月なんぞ早昔。皆々様もうすでに労働にいそしんでいる事と存じ上げますが、いえ、例にもれずあたくしもそんなクチで御座います。

 

 正月と申しますと「新年は、冥途の旅の一里塚、目出度くもあり、目出度くも無し」等と申します。これは一休宗純、俗に一休さんと呼び親しまれる変人僧侶の詠んだ歌で御座いますが。

 

 「ああ、死にたくない」

 

 「ああ、年なんて取りたくない」

 

 なぞ日々平静蒙昧に愚痴って居りながら、また冥途への道が一歩近づいた証である新年なんて行事ともなれば、やれ目出度いだの、有りがたいだのって、盲目にこれランチキとはしゃぐのは、甚だ分裂気味であり、いささかおかしいではあーりませんかと。故に新年においてこれ真っ事正しい過ごし方とは即ち、日頃嘆くに基づいて自分自身の死がまた一歩近づいたという証であるから、初日の出にガン飛ばするが如く自ら粛々と、我が死と向き合い恐れ念じ、それ突き詰めて故に狂乱の境地となりはて、あげく喪服姿で神前において割腹自殺を執り行わんといった神妙な気分で土下座して三が日を過ごせ・・等と言う事ではなくって、なんと言うか、まあ浮かれている時も少しばっかり相対的な視点を持てよって事を、この宗純さんって人は言いたいんだなと思うのであります。

 

 いやはや。

 

 しっかし「目出度い」「目出度い」とチキチキ浮かれている世情に対して、はたしてこれが本当に目出度いのかと、少しばっかり疑う・・・んでも疑って疑ってと、疑いを重ね重ねて、あげく全部疑って否定して、それでお終いってのもただ単のニヒリズムに帰結して、それで終いになっちゃうってのも、それはただの破壊であって、よー御座いませんわね。みたいな事を・・ええ、この宗純さんて方は仏教徒であり、何分仏教という物は本来極端を嫌う。これ中道と申しまして、何事においてもチョードいい塩梅テー物が、まま、最上で居ります故破壊や極論や、(某宗教団体における定義としての)ポア的なものは一切不要なものでは御座いますが、まま戒めとして、「正月は冥途の道の」と浮かれる民草・・我々に楔を打ったうえで、「目出度くもあり、目出度くも無し」とその売った楔の心情を、いささか柔らかく、まま開放していると申しますか、その中道の本懐に立ち戻るように、導いておるのだと・・あたくしはそう解釈しておるわけでして。

 

 ・・と、

 

十牛図という絵が御座いまして。

 

 これは禅宗における悟りへのプロセスを、逃げた牛を追う男の行動という比喩でもって描かれた絵物語なので御座いますけれど。マーなんですかな。

 

 あたしは、菩提心と言って本来悟りも糞もない人間ですから、べつだんそーゆー宗教的会合には・・不慣れで御座います。が、以前行った座禅体験会みたいな催しの折の住職が、この十牛図のニッテンスイシュという絵を例に出されて、「座禅を初めて始めた場所と終わった場所は同じであるが、しかし、何かが違う。座禅によって日々と離れるが、そこからまた日常に戻るように」と言うようなことをおっしゃておりました。

 

 まあ、ある種。物事を疑って、もうすべてを疑い尽くしてもいいんだと思いますけど、そこからさらに帰ってきて、素直にまた俗に。

 

「あけましておめでと」というようなね。

 

 再び俗に帰ると言う事が。

 

 「新年なんてばかばかしいや。だってお前、また一歩死に近づいている一里塚だぜ?」

 

 なんて、ある種相対的、超越的精神を気取って、其処からまた俗に戻って素直に「おめでとう」と言えるようなね、なんかそういった心持で言った「おめでとう」は盲目的に新年を祝った、いわば受動的な何の疑いもない慣例としての「おめでとう」とは違って、まあ、心にいささかの真心と清らかさが伴うのではないかと、そんなことを想いながら、そういった心持で、本年を過ごしたいとそんな感じで、皆々様に年初の挨拶をさせていただきます。

 

 

「新年、あけましておめでとうございます」

 

まだ七日、ギリ正月であります故に。

 


一休さん 第9話「めでたくもありめでたくもなし」