酒の井戸

アルコールの海に溺れながら考える世界のいろいろな出来事。または箱庭的な自分のこと。

永遠と1日について2

今週のお題「家飲み」

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静かな夜。僕は疲れた仕事の余韻を洗いながそうとビールを二缶飲んだ。それで気分がいくらかマシになったから、いよいよ本腰を入れるため、冷凍庫から不揃いのかち割り氷を四つとりだしてグラスに沈めた。ピスタチオの袋の封を開けて、それを白い皿に転がす。不規則に転がるその粒の、運動を眺めながら、ふと、ずっと思い出そうとして思い出せないでいる言葉について考えた。
 氷と外気と・・そういった温度差でグラスの表面にぽつぽちと水滴が浮かぶ。その水滴が雫となってグラスの曲線に沿って雨だれのような線を描いた。
 確かそれは、時間についての示唆だったと想う。どこかで読んで、ずっと心に留めておくつもりが、いつの間にか見失ってしまった。それでもこうやってふとした瞬間に思い出す。中身の見当たらないぽっかりとしたドーナッツのような穴を。それで少しの間記憶の中を探してみるのだけれど、果たして何処にしまったのか・・。

 暑くもなく寒くもない、丁度良い夜だった。グラスの氷はもう少し溶けだしていて、僕は最近ハマっている黒糖焼酎をボトル棚から取り出して、そこに注いだ。それから水を。丁度5対5の割合になるように上手く調節して、そうやって飲む「里の曙」はウイスキーのような甘い芳香と、すっと喉をすべる柔らかい飲み口が最高にべろべろを誘う(さそう)。いや、誘う(いざなう)。

 連続した絵画のような映画が小さいテレビモニターに映っている。
 その舞台、遠くギリシアの暗い夜は、雨が降っていた。
 その音を、今音響は拾わない。
 ただ静かに落ち続ける雨粒に、アスファルトはもうすでに黒く染まっていて。
 老人と少年がバスを指さし駆け寄るシーン。
 どこか楽しそうに、嬉しそうに。
 雨音の変わりに管楽器の奏でるメロディが聞こえた。
 綺麗だなと、僕は思った。


Eternity and a day - Bus scene



 バスに乗り込む二人。五十前後のヨレヨレの切符切りの男がそれを迎えた。この男は例えば生と死の狭間にいる門番のような存在・・もしくはそう言った類の象徴のような男で・・この男によって、このバスという閉鎖された空間に或る種の特殊性が加味される。それはこれはただのバスではない、ここは(映画的な意味合いで)劇場的に演出された閉鎖空間であるという示唆である。
 そんな空間の中で、その男はただ淡々と乗り降りする乗客の切符を切り続ける。そして次の駅が近づいた時、その駅名をアナウンスする。

 例えば、こんな風に。
 「次は、魂の駅」

 ・・・。

 僕はこのバスが環状線であることを知っている。もっともこのバスが環状線であるなんてアナウンスや表現は映画の中で一切無いのだけれど。
 それでも僕はこのバスが環状線だと強く思う。
 何故ならこのバスは生命の循環を意味している。生まれては死に乗っては降りるという・・イメージとしては、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』に近いのかもしれない。生命は循環を繰り返しながら、形を変えてゆく。銘々が銘々の駅で乗りそして降りるべき駅で降りてゆく。
 映画の中でバス(劇場)は運行と停車を繰り返しながら、様々な人々のシーンを浮かび上がらせる。まるでノルウェーの画家エドヴァルドムンクの描いた帰宅途中の労働者のようにゲッソリと青ざめたた人々。闘争の喧噪を背に赤旗を担いで乗り込んでくる青年は、とても草臥れた風に椅子に腰掛けたとたん眠りにおちた。若い男女は学生で、男は自分がもう少しで掴めるだろう新しい表現様式の片鱗と、その可能性に燃えていた。
 若い芸術家は誰だって一度はこんな幻想に取り付かれる。世界を完全な形で変革できるほどの強烈な力を持った新しい表現様式や思想・・それをもう少しで獲得できるんだという思いこみは,想像出来る以上の脳内麻薬を生み出し、苦痛(産みの苦しみ)であるが故の果てしない快楽に包まれて、まるで自分が世界の中心人物意でもなったかのような錯覚をもって、周囲との乖離をきたし、結果周りに迷惑をかけまくるという悲しい現実を生み出してしまう。

 男は言った。「何で人の話を聞いてくれないんだ」と。

「新しい表元が必要なんだ。でも君はあんな芸術家と遊んで、ゴシップを流しているだけじゃないか。ムカつくよ。でも愛してる」

 男の必死の訴えかけに対して、女は無表情に・・どこか演出的に(この場合の演出的と言うのは映画的な演出と言うのではなく、いかにも女性の男の訴えに対する馬鹿馬鹿しさへの自己表現としての演出と言う意味である)・・ため息の代わりの無造作で、男から受け取った花束をあっさりと捨ててバスを降りてゆく。そしてそれを追いかける男。

 床に落ちた花束。

 その落ちた花束を傍らに居た五十過ぎのさえない男が少し迷った風に、こっそり周りを見渡してからまるで意地汚くそれを拾って、それから大変感慨深げ、とても大切そうに抱えて、やがてこの場面から消えた。

 この映画は常に美しい混沌が一巻(ひとまき)として連なり続く。全てが主人公アレクサンドロを起点として発生しているが、夢と現(うつつ)今と過去、現実と思索の世界が(受け手にとって一見すると)アメーバのように折り重なって、かなり不整理なままに物語が進んでゆく。だから物語上の主人公が、いま何処にいるのかがかなり解りずらい構成になっている。

 このアレクサンドロが今乗っているバスと、その中で巡る多々の現象は、果たして現実に起こっていることなのか?それとも・・?
 赤い幻灯が滲んだバスの窓越しにぼんやりと浮かんでいる。
 三人の男がバスに走り込んできた。それはいかにも不思議な三人組で、楽譜を乗っけた譜面代と裸の楽器を両手に持っていた。そしてその楽士達はそのままバスの中央に陣取り、音楽を奏でだした。フルートとバイオリンとコントラバスのアンサンブル・・かなり非現実だが美しい状況が描かれる。アンサンブルの奏から流れるようにこの映画のメイン・テーマに切り替わる。カメラは少年と老人と、眠り続ける赤い旗の男と切符切りを映す。皆が動かない画面の中、切符切りだけがあわただしく銭勘定をしていた。

 そして、切符切りの男はまた次の駅名をアナウンスした。

 「オディオン」

オディオンとはギリシア語で劇場を意味している。*1

正に僕がさっき考えたような、人生劇場を映し出す映画的演出としてのバスという意味合いを種明かしのように含みながら、しかしそれだけでは無いような気がする。
 それで例えば、こんなことを考えてみる。

 我々が暮らしているこの空間・・それは宇宙空間と呼ばれるかなり広大無限な空間であるが、無論その全てを活用できている訳ではない。我々はこの世界にいながら、そのほんの一部を利用して、閉ざされた生活を・・限定された日常を送っているに過ぎない。
 全てを味わう事は出来るはずがないし、全てを知ることも端っから不可能である。
 まるで劇場に設えた舞台のように限定的な空間に居て、現れては消える人々や、煩いや喜びに日々捕らわれているに過ぎないのだと・・。

 それからバスが止まりドアが開いた。乗り込んできたのはかなり非現実な格好をした男である。背の高い気丈居な身体に黒いマントを羽織って、頭にシルクハットを被っていた。男は19世紀のギリシアで活躍した愛国詩人ソロモス*2で。アレクサンドロはソロモスの研究を妻亡き半生の仕事として捧げていたのだった。
 ソロモスは悠々とバスを歩きアレクサンドロの対面に腰掛けマントを直すと、彼の方を向き一編の詩を吟ずる。

 「朝露に濡れた明けの明星が

輝かしい太陽の到来を告げて

晴れ渡った空を乱すものは

霞も影も一つもない

やさしい風が吹き渡り

見上げる顔を愛撫する

魂の奥へささやくように

人生は美しい

そう、人生は美しい」

 アレクサンドロは縋るように詩人に問いかける。

「教えて下さい!明日の時間の長さは?」

 しかし詩人はそのま問に答えることなく、バスを降りてゆく。


 4
 物語が終わって、エンドロールが流れている。僕は空になった白い皿を眺めた。ナッツの欠片が転がっていて、それからふっと目を移すと、窓の外は、もう少し白じんでいた。時計をみようと思って、何となく止める。グラスの氷はもうとっくに全部解けていて、生ぬるく水っぽい液体を、一気に煽ると歯を磨こうと、洗面台に立った。
 戻ると音楽は止んでいて、モニターは黒く光っていた。リモコンを使ってテレビの電源を切る。鳥の鳴き声が聞こえた。もうとっくに明日になっていたんだなと思った。

永遠と一日 [DVD]

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ytugatakewo.hatenadiary.com

*1:Odeon, Odéon

*2:ディオニシオス・ソロモス