どうも、ドエムですって、違うって。
え、なに?郵便局に居たドエスのねーちゃんに、心儚く想いを寄せるうちに、図らずもあれやこれやと開発されちまったって話しじゃねーの?って
ちげーって
今回はあっち
じゃなくって、こっち。
と言うわけで、『ねぎまの殿様」と言う落語と言う落語を、口不調法ながら紹介してゆくと言う段、巻き、その他諸々でございますが・・・。
ってんで以下。
前回、「ねぎまとは何か?」てえ所で、話しが途切れましたな。ねぎまとは、ねぎとマグロ。葱鮪と書いて葱間と読むんだぜ。とかなんとか。そんなところから続きを書きたいと思います。
鮪というのは、現代日本においてはまあ随分と人気のある食べ物でございまして、中でもトロなんて部位は四番バッターでございますから、それにあやかり便乗しようと、トロサーモンだとか、豚トロだの何でもかんでもトロ付けときゃあバカな消費者は買うだろうってな、いささか安直な思考に陥り日本経済は麻痺して終わりと。・・・そんな塩梅でございますが。いやちょいと言葉が過ぎました。
では、江戸時代はどうだったろうかと、それが問題であります。
さて、江戸の魚と言えば、やはり鰹が当時の四番。
「女房を質に出しても初鰹を食わなきゃ江戸っ子じゃねぇ」
と、当時の江戸っ子は言ったとよく聞きます。因みに、この言葉にはいささか自嘲的な意味合いが含まれておりまして、
「家の古女房を質草に出したって、そんな値にはならんだろうと」
と。なんかそんな自虐的なギャグだったみたいです。
当時初鰹は一尾三両と、大変な高値をつけました。
では鮪はどうなんだ?と言う話しになりますが、どうもあんまり人気が無かったみたいで。・・・・あたしの書棚に『江戸時代「生活・文化」総覧』という本がございまして、それを捲るに「ねぎま」の項には
「文化七年(1810)の『飛鳥川』に、昔はマグロを口にしたこと人に話す時には、耳に寄せて内緒話をしたのに、今は「歴々の御料理に出るもおかし」とあり、江戸後期になって、少しは高級化したが、一般的には下魚だった」
と、あります。
・・民明書房じゃないですよ。
文化文政といえば、江戸文化が非常に栄えた時期であったと、学校の授業で習いました。一辺舎一九が『東海道中久栗毛』にて庶民文化を書いたりと・・・と言うことは、先だってブログに書きました
「この、『ねぎまの殿様』という作品が、江戸時代といっても三百年ですから、長い。その長い江戸時代のどの辺りを背景にして書かれたのか?と、気になって、いろいろと調べたんですがね、良く分からんのですよね。」
と言うくだり、当然、当然文化以降の話であるて推測がつきますよね。
まあ、しかしマグロというのは当時人気が無かった。中でもトロってのは猫跨ぎなんて言われていたらしく。つまり、猫ってのはホントかどうか知らないが、イメージとしてお魚をよく咥えるイメージがある。それに続くのが裸足で駆けてく陽気な人って・・まあこれは昭和以降のイメージかもしれませんが、この当時も猫は魚が好きだと、そんな印象があったらしく、そんな猫すらも跨いで歩くほど、「あーあのトロってやつぁ、どうも脂濃くっていけねえやぁ」って。そう語られていたらしいです。
刺身ってのは、世界中をざっくばらんに見回しても、案外日本人がよく食べている印象で。島国の恩恵ってやつでしょう。それに、気候風土の条件も案外よく、生魚を食べる文化は日本独特であります。が、しかし冷凍・冷蔵保存なんてのが無かった昔、刺身ってのは随分と高級なものだったらしく。旨い魚をなるたけ旨いように食おうという努力だった。マグロの、トロってな部分はあんまり・・と。
だって、
「あーあのトロってやつぁ、どうも脂濃くっていけねえやぁ」
ですからね。
それで、庶民の知恵ってやつです。脂っこくたって、湯で湯がいちゃえば、まあ何とかなるんじゃね?・・・みたいなと、おっさんが無理して若者言葉使いましたみたいな文面だが、まあ、ここでリミッターが過ぎました。
後は野となれ山となれ。
あすた以降の自分に任せて、今日はこの辺でお暇と、まあへ、っへ、っへ。
今回、全然すすまなかったな。