今週のお題「2020年上半期」
1
一週間続いた長雨が、今朝になると嘘のように止んでいた。体が重い。昨夜の酩酊のツケが体を蝕んでいる。
ここの所、休みの度に雨に降られていた。何度恨めしく垂れる雨だれを窓越しに睨んだろう。それに重ねてこの長雨で。「どうせ明日も・・」等とハナから諦めて、ろくに天気予報も確かめずふて腐れた故の週末、深酒だった。
・・そして結果この晴れ間である。
窓から射した夏の光線が瞼を撫でて、一閃。それで起こされたのだ。まさかと飛び跳ねて窓を覗いて、写真撮りに行くかぁと、カメラバッグを取り上げてみたが・・いや、威勢の良いのはそこまでで。途端体が漫然と重くなって「あー」と声を上げて、そのまま布団に逆戻りだ。重力にあがらう事も出来ないくらい、今この体はやられちまってる。アルコール、ニコチン、音楽、写真、言葉・・どれもが昨夜一時の幸福に欠かせない重要な要素だったが、どうも摂取過剰だったらしい。
そうやって惰性の沼に沈み込む。
いつだったか、巷ではやるエナジードリンクをして「命の前借り」と称したお医者さんがいて、ナルホド上手いこと言うなと思ったが、その論を借りて例えるならアルコールは「快楽の前借り」に過ぎない。人間が一生のうちに味わえる快楽の数値は前もって決まっていて、昨夜味わった快は、今日、今この瞬間の分の快を先取りしたに過ぎないのだ。今味わっているこの不快感は、そのツケの返済に過ぎないのだろう。・・浅い眠りと曖昧な現実の狭間で、まだらに働く思考。布団の中で恨めしく聞く僕を置き去りにした世界の音。鳥が羽ばたき枝が揺れる。車が走りカーブを曲がる。誰かを呼ぶ声。
2
惰性の沼の中で曖昧なそぞろ、現実と夢の狭間にいた。眠るときはYouTubeの朗読チャンネルをランダムに流すのが最近の常で。中でもとくに気に入って聴いているのは『半七捕物帳』。これは明治の大衆作家岡本綺堂がドイルのホームズから着想を得て、その舞台を霧立ち込める彼のロンドンはベーカー街から我らが大江戸八百八町に置き換え書いた所謂時代物ミステリーの元祖とも言うべきモノでであると。*1
さて、著者であるこの岡本さんて御方この方は江戸の名残に生きる明治からの生き字引で・・それでこの半七捕物帳なる作品は・・これはむろんフィクション・・作り物の世界であるから別に歴史資料として価値があるかってーと・・ベツダンそーいう代物では無いのだが、だがやはりの書いたモノだけあって当時の再現・・描写と言う面に於いて他についづいを許さないリアリティがあるのである。
まあ、その辺りは今日日便利なネット社会。綺堂解説なんて代物はそこらにちょいっとググり遊ばせれば、わんさと出てくるのであって、故に其れ等をご覧じろという次第である。*2
と。
さて少し夢の話をしたい。この深酒の果ての惰性と倦怠感にまみれた先に見る夢の話を。
3
眠りにて訪れる異現実との境界で、僕はつかの間の労働に従事する。主な登場人物は勤め先の同僚達、見覚えのあるいつもの職場が舞台だ。・・どうも僕は潜在的に悲観的な人間らしい・・いつだって夢の中の僕は現実以上に困っているのだから。
大抵とても自力では解決できない課題に頭を抱えているのだ。この課題のために与えられた時間はあとわずかしか無いのに、解決の糸口は一向に見つからないと来ている。にも関わらず同僚達はあっけらかんとその場からいなくなる。夢の外で僕は僕だけの困りごとの空間を眺めている。僕の悩みを
客体として眺めながら、しかしその僕を僕は何故だか主体・・・僕そのものとして捉えている。夢の中で観られている僕はそれが観られている客体であると理解しないままこの苦悩を演じ続けている。そして観ている自分も・・僕はまるで映画のスクリーンの中で七転八倒する第三者的構図で夢の中の僕を見ているのだが、僕はまるで自分自身として彼の僕が感じる苦悩を味わっている・・と言うのがよく見る夢のよくある筋だ。
僕は仕事に追われながら独り言を呟く。
「あー困った困った。何でこんなに上手くいかないのだろう。仕事は溜まるばかりだし、同僚達は皆帰ってしまった。彼らは皆顔が無くのっぺりとしている。空は青白く光が薄い」
と、其処になぜか半七親分が唐突に登場してこう言うのだ。
「そうでもあるめえ。朝顔の盛りは御存じねえ方だろう。だが、朝顔ももういけねえ、この通り蔓つるが伸びてしまった」
・・・。
4
いつだったか眠りの深さ/浅さは時刻体調等をもって変転し、一刻と止まることはないと聞いた。そしてその眠りに於いて最も浅い頃・・川向こうの現実に最も近づく眠りの川縁にて、人は夢というモノを観る等と。
故に夢とは現実と非現実との会合である。無論これは全て自己の内の働きである。・・精神分析のジークムントフロイトはその著書にてこんな事を言っていた。
「夢は無意識に至る王道である」
と。
彼は我々が平静「自分自身そのもの」だと思い込んでいる〈意識〉の裏奥底に〈無意識〉等という普段到底自覚し得ない自己を見いだしたのだった。それこそが自己の核、自己の真実という隠された
秘宝で・・まさに夢はその自覚し得ない自己の真の姿・・秘宝へと到達するための迷宮なのである。
かつて自分だと認識していた・・いや・・平静、日常の多くの出来事の中で当たり前にそう認識している自分自身とは本当の自分・・ですらない。よく聞く愚痴。「あいつは俺のことを理解していない」・・本当に?そう思うとき(または口に発するとき)貴方が言っている「俺」とは貴方の実態では無い。貴方は無意識下で都合よく選択し集積された情報を、表層的に束ねあたかもそれが自分自身であるかのように振る舞い語っているが・・だがそれは貴方の表層的な意識が作り出した自分にとって都合のよい情報の集積・・仮像に過ぎないのかもしれない。
・・とか、そんな精神分析のデタラメな自己解釈を恥さらしに啓蒙をしたいというわけでは無く、とにかく、このフロイトさんという人が言った「夢は無意識に至る王道である」というよく分からん世界を・・まあ、この自我たる「奴が岳魚的表層意識存在」なるモノが迷い込む無意識の迷宮の中で、いきなり・・例えば『半七捕り物帳』の朗読なんかが聞こえてきて・・さてなんだこりゃ?みたいな気分に・・いや、なりませんな。その時はなんない。その時は夢の中にいて、其処が夢とも自覚せず不確かな世界で遊び迷っていて、唐突になんかマザー(地母神)的な全てを包み統合せんとする・・みたいな、なんかあさってからのやたら深みのある声で、文脈のよく分からない言葉が並べられる。そして、奇妙なナレーションというおまけ付きだ。
「殺されたには相違ねえんだが……。そいつが啖くい殺されたんですよ」
「化け猫にか」と、半七は笑った。「いや、冗談じゃあねえ。ほんとうに啖い殺されたのか」
「ほんとうですよ。なにしろわっしの隣りですからね。こればかりは間違い無しです」
庄太の報告はこうであった。
等と言われてみても、夢の中の僕はちっとも不思議に思わないから、「ははあ、さようですかい」としか返すしか無い・・いや、無意識の世界であるから、もっと倒錯した返答の仕方も有るかも分からんが、とりあえずその場ではその場なりの返答をするのだが・・目が覚めてみると、何んのこっちゃ??とか思うのである。
5
しかし考えてみると、この「なんのこっちゃ分からん」・・と思わせるこの第三極・・意識と無意識と半七捕物帳・・の、この半七にしてみたって、これを眠りの前に選択している自分がいる・・無論これは意識的な作用である・・僕は断然意識的に半七を選んだと宣言したい・・筈なのだが、しかし件、あの無意識の大家のフロイトセンセてぇ御方にかかっちめーばアータ・・「そりゃぁオメーサン。それこそが無意識のなす所ってもんサ。おめーさんが錯覚しちまってるあんたて代物は、果たし本当におめーさんなのかえ?いや、良いんだ。おめーさんがそうやって悩む必要もねえ事で。いや、万事こっちが解決してやろうって、腹づもりさ」などと簡単に切って捨てられるから、これが困りもので。
・・なぜ困るかってーと、いやはや・・
やれん。やれんからソ連。シド寝連。・・アンタ寝過ぎや。
6
と、そんな自己と自意識と身体の倦怠期を振り払って撮った僕の写真を観てください。(ナイツ方式。)
追記
この半年、ずっとこんな感じでした。2020上半期の記録。そしてたぶんきっと下半期もそうだろうから、一旦ここにとどめおく
*1:コナン・ドイル=アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル(1859~1930)作家 歴史作家を志したが全く売れず戯れで書いた『シャーロックホームズ』シリーズが本人も予想外の大ヒットになり、以来ホームズの影に悩まされる人生となった・・いわば元祖一発屋か。オカルト研究の第一人者としてそれ系の本にもよく名前が出てくる。筆者は小三の頃『まだらの紐』を図書館で借りたのが、初ホームーズ体験でした。[wikipedia:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%8A%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%AB]
*2:岡本綺堂 江戸文化に関する漫画や著述で著名な杉浦日向子さん・・もう何年も前に読んだインタビュー記事。そこで大好きな杉浦日向子さんが、岡本綺堂のことを語っていたのが読み出した切っ掛けです。もう出典出来ないほど遠く忘れてしまったけれど、「江戸文化に触るなら読んだ方が良い」と『半七捕物帳』を上げてらっしゃった・・気がする。