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酒の井戸

アルコールの海に溺れながら考える世界のいろいろな出来事。または箱庭的な自分のこと。

今日の景色

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朝から降り続ける雪が午後十八時現在まだやむ事もなく。木々枝々に取り憑いた白が雪綿帽子が膨らみ、やがて数か月後咲く花を思わせますが、実際、背景の白と同じ調子に沈みその膨らみに艶やかさは感じません。風もなく、ただ空より下へ単調に落ちては宿り。その集積が今こうして見える冬景色となって、辺りに顕在するばかりです。

 国道を走る車も今日は少なく、たまに通る貨物をいっぱいに積んだ運送トラックの排気音も、この雪の宿りの中、そしてその集積に吸い込まれ音あせて、辺りは全体に静かです。

 僕は車を時速四十五キロで走らせて、次の一週間分の食材を買い出しに。スーパーの駐車場に停まる車はいつもより少なく、がらんどうの空き地を従業員がせっせとかいていました。半熟のように曖昧に溶けたアスファルトの水溜まりを踏みよけながら屋内へ入り、いつもと変わらない店内音楽を聞きながら、キャベツと白菜と。それから細々色々な物をかごいっぱいに詰め込んで、レジスターのおばちゃんの前へ差し出すと、果たして彼女はそれらの山をいとも容易く整理してのけたのでした。

 会計を済ませ、騒がしい店内音楽を後に開く自動ドアを一歩向こうへ踏み出せば、また世界はあの懐かしい静寂へ包まれます。僕は寒さによる苦痛よりも、この静けさのほうがよっぽどの安頼に感じて、ああとため息をついて、吐息を漏らしました。喫煙者の喫む煙草の煙のように、その白い白い息はやがて渦を描くように微かに分散しながら中空へ上り、降り続ける雪空の中へやがてだんだんと静かに浸み込んでいったのでした。

原初の記憶にさかのぼり、そして飲みすぎて更新が一日遅れた

 

空に朝焼けが、さながら日本絵具のように滲んだ群青色の富士を淡く浮かせて、世界に染み込みますな。大凡、諸々の人にとって一月十六日という日は、途方もなく平凡な一日でありましょうが、あたしにとって少しばっかり特別な日なのであります。

 

 三十七年前丁度キッカリこの日にこの世に生れ落ちたもんで。

 

 しっかし、誕生日と言ってまあ目出度いんだか忌まわしいんだか、よー分かりませんやね。生まれる前の記憶は生憎と、するりと抜けておるもんで、だからあたしは自分が望んで此処に居るのか、それとも望まざるながら此処に居るのか、たまさか望む望まざるなどという所謂意志的なもの、いわんやある種の力の類とは全く関係なしに、ただ虚構無意味虚無的に此処に存在しているのか・・よー分からんのです。残念ながら。

 

 しかし、だからこそ、故に生は戸惑いでもあり、故に生はコーキシンの源でもあるっチューもんでもあります。生きているっチュー事は。

 

 何なんでしょうね。

 

 人間だものでしょうか。

 

 人生なんてあっと言う間だなんて、よー聞きます。小学校の時分でしたかな。正月に親類縁者と一同集っての酒宴で、大人連が上のようなセリフを感慨深げに吐いていたのを思い出します。当時ガキ畜生だったあたしにとって、時間が速いなんて現象は、全く未体験の領域でありましたから。

 

 「なに吐き散らかすかなこのトウヘンボクは。間抜けな事ぬかすねぃ。起きやぁがれ」

 

 等と世間知らずな感想を人知れず心内に浮かべて大人を軽蔑したもんですが、いや実際こうやって年を取って、あの当時の大人連と同年か、幾ばかかと近づいてみると、いや実際人生なんてあっと言う間ですな。

 

 

 しみじみと、三十七年の日々を思います。

 

 

 2

 

 三十七年前、あたしゃ信州・・今でいう長野県の茅野市というところに居ましたね。あの辺りは非常に寒い所で。丁度その日もシンとした、音も消す雪深い夜で御座いました。暗闇にただ重いボタ雪が重なっては、また白く染まり重なります。しかし景色を見ると総体それは暗いのであります。月明りもない。ただ向こうの丘が僅かに浮かぶ。

 

 寒い地方の風呂は伝統的に熱いと聞きますが、それは多聞に漏れずこの信州という土地にしてもどうやらそうらしく。例えば、知人の家にお邪魔して、向こうの客あしらいで一番風呂と招かれて。ともなると向こう様は善意の内、熱い風呂が一番の馳走だと申しますから煮えるような湯に飛び込めと・・勧めます。いえ、入れたもんじゃありません。煮えるような湯に指先を入れれば、さながら石川五右衛門の気分。こちらも一番風呂を戴いてという認識がある。後ろに控える家族の事を考えると、湯を埋める事も出来ずに、桶にこう溜めまして、行水のごとく浴びて、「ああ良いお湯でした。ご馳走様です」と出ましたけれども。

 だから、そういう地域柄ですから、恐らく産婆さんが気を利かせてくれたんでしょうな。初めての産湯は、其れはそれは熱かったですな。こう取り上げられて、湯に落とされて、あたしゃ思わず「アウチッ」と叫んで、漫画的に湯船から飛び出しましてね。そいで床で滑って頭をぶつけて・・まあ、そのおかげ様でこんなすってんてんな人格が出来たとも一説には聞くところではありますが。

 

 しかし湯という物は良いもんで御座いますな。やがて丁度いい塩梅に温んだ湯につかりながら、文字通り生まれて初めて日の光を感じました。朝焼けで御座いましょう。光。窓に張り付いた重雪の欠片がプリズムの様に綺麗で。乱反射した光を目で追い集めながら、ストーブの排気音を聞きました。それから、後ろのベッドに見ず知らずの大女が寝息を立てていて・・これが後にアタシの母親であると知ることになるのですが、その当時はまさか知る由もなくて。いえ、というか、母親はおろか、そもそもがこの時あたしはまだあたしとして個人を獲得/認識していなかったのですな。だからその時は上にざっと上げたいい湯だのプリズムだのストーブだの寝息だのという諸々の現象は、そもそも減少として認識していなくて、実にアメーバのように曖昧で・・身体/境界の伴わない速水もこみちクッキングに於けるオリーブオイルが如く模糊模糊しちょる故に・・身体という境界線の伴わない世界と自己の相対性の失われた梵我一如の如き・・・まあ、なんつーかふらふらしてたっチューこっちゃ・・というか、そろそろ嘘八百並べるのも苦しくなってきた。まあ、生まれた時の記憶なんてありませんやね。昨日の夕飯何食べたかすら定かじゃない始末ですから。

 

 まま、今年も上の様に嘘八百日記を書き連ね、皆々様のお目をせいぜい汚して、勝手気まま面白おかしくあたしゃ酒に酔い狂って、平々凡々と仕事もして、なんかいらないことを考えたり、考えなかったりして、今年一年を無事に過ごしてまた来年も全く同じ内容の記事をコピー&ペーストで更新してってやりたいと思う所在で御座いますので、どうかよろしくご指導度鞭撻のほど、お願いいたしますう。

 

てな塩梅でね。

 

ね?

遅すぎた新年のあいさつ

日記

今週のお題「2017年にやりたいこと」

 

 えー、七草ですな。余った餅を粥にぶち込んで、正月もこれで一応お終いという訳で御座いまして。ってまあ、のんびりとした昔とは時代が違います故、正月なんぞ早昔。皆々様もうすでに労働にいそしんでいる事と存じ上げますが、いえ、例にもれずあたくしもそんなクチで御座います。

 

 正月と申しますと「新年は、冥途の旅の一里塚、目出度くもあり、目出度くも無し」等と申します。これは一休宗純、俗に一休さんと呼び親しまれる変人僧侶の詠んだ歌で御座いますが。

 

 「ああ、死にたくない」

 

 「ああ、年なんて取りたくない」

 

 なぞ日々平静蒙昧に愚痴って居りながら、また冥途への道が一歩近づいた証である新年なんて行事ともなれば、やれ目出度いだの、有りがたいだのって、盲目にこれランチキとはしゃぐのは、甚だ分裂気味であり、いささかおかしいではあーりませんかと。故に新年においてこれ真っ事正しい過ごし方とは即ち、日頃嘆くに基づいて自分自身の死がまた一歩近づいたという証であるから、初日の出にガン飛ばするが如く自ら粛々と、我が死と向き合い恐れ念じ、それ突き詰めて故に狂乱の境地となりはて、あげく喪服姿で神前において割腹自殺を執り行わんといった神妙な気分で土下座して三が日を過ごせ・・等と言う事ではなくって、なんと言うか、まあ浮かれている時も少しばっかり相対的な視点を持てよって事を、この宗純さんって人は言いたいんだなと思うのであります。

 

 いやはや。

 

 しっかし「目出度い」「目出度い」とチキチキ浮かれている世情に対して、はたしてこれが本当に目出度いのかと、少しばっかり疑う・・・んでも疑って疑ってと、疑いを重ね重ねて、あげく全部疑って否定して、それでお終いってのもただ単のニヒリズムに帰結して、それで終いになっちゃうってのも、それはただの破壊であって、よー御座いませんわね。みたいな事を・・ええ、この宗純さんて方は仏教徒であり、何分仏教という物は本来極端を嫌う。これ中道と申しまして、何事においてもチョードいい塩梅テー物が、まま、最上で居ります故破壊や極論や、(某宗教団体における定義としての)ポア的なものは一切不要なものでは御座いますが、まま戒めとして、「正月は冥途の道の」と浮かれる民草・・我々に楔を打ったうえで、「目出度くもあり、目出度くも無し」とその売った楔の心情を、いささか柔らかく、まま開放していると申しますか、その中道の本懐に立ち戻るように、導いておるのだと・・あたくしはそう解釈しておるわけでして。

 

 ・・と、

 

十牛図という絵が御座いまして。

 

 これは禅宗における悟りへのプロセスを、逃げた牛を追う男の行動という比喩でもって描かれた絵物語なので御座いますけれど。マーなんですかな。

 

 あたしは、菩提心と言って本来悟りも糞もない人間ですから、べつだんそーゆー宗教的会合には・・不慣れで御座います。が、以前行った座禅体験会みたいな催しの折の住職が、この十牛図のニッテンスイシュという絵を例に出されて、「座禅を初めて始めた場所と終わった場所は同じであるが、しかし、何かが違う。座禅によって日々と離れるが、そこからまた日常に戻るように」と言うようなことをおっしゃておりました。

 

 まあ、ある種。物事を疑って、もうすべてを疑い尽くしてもいいんだと思いますけど、そこからさらに帰ってきて、素直にまた俗に。

 

「あけましておめでと」というようなね。

 

 再び俗に帰ると言う事が。

 

 「新年なんてばかばかしいや。だってお前、また一歩死に近づいている一里塚だぜ?」

 

 なんて、ある種相対的、超越的精神を気取って、其処からまた俗に戻って素直に「おめでとう」と言えるようなね、なんかそういった心持で言った「おめでとう」は盲目的に新年を祝った、いわば受動的な何の疑いもない慣例としての「おめでとう」とは違って、まあ、心にいささかの真心と清らかさが伴うのではないかと、そんなことを想いながら、そういった心持で、本年を過ごしたいとそんな感じで、皆々様に年初の挨拶をさせていただきます。

 

 

「新年、あけましておめでとうございます」

 

まだ七日、ギリ正月であります故に。

 


一休さん 第9話「めでたくもありめでたくもなし」