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酒の井戸

アルコールの海に溺れながら考える世界のいろいろな出来事。または箱庭的な自分のこと。

アル中ふぜいがなんかながながとえらそーにいっとるわ

 ああ、気がつけば五月も早下旬で、いよいよと初夏と。空の匂いも随分瑞々しく、空気

がまったくよろしゅうござんすな。今時分が一番調度良い・・過ごしやすい季節ではないでしょうか?
 これがまたしばらく時を重ねてって、七月八月てなりますってーと空気中の水っぽさがいよいよ重(カサ)を増して、なんかムシムシする・・べたつくなんて具合になります。少し手前、六月のことを考えても、やはり梅雨って事が御座いますから、あたり全体はやはり水っけが多くって、陰鬱であると。・・・少し空気の重さが違うのでありまして。

 さて、それで晩春の新緑の名残なんてモノを引きずっている今時分てのは、流れる風に揺れる空気の塩梅と考えましても、調度良い具合。そこに漂う緑の香りと言って、またコレが何よりのアロマテラピーで御座いまして、月夜の匂いに誘われるがまま、ベランダの手すりに体を預けて傾けるロックグラスなんてのは、なかなかにオツなものであります。

 雲の流れる間に間に光を照らすあの月光は、今少し欠けていて、満月にもならぬ月が景色を揺らします。虫は鳴くでもないが川のせせらぎは確かに聞こえて、僕はグラスの中にある割れた丸い氷りと、その周りにあるトロッとした液体に、月光から反射した光を感じるのです。
 興にまかせてそれをちょいとオデコに当てると、やあ冷たい。
 そして夜は実際暗いのです。
 闇が中りにきれいに浸透して・・それは都会人民の常識には到底想像できない現象でしょうが・・闇が深くなればなるほど、その周りに散乱する光の粒も、また一等強く主張したりするのです。

 すべては相対的な関係性によって成り立っている。


 本当に深い深い闇の闇の中で、パチパチと反射しながら瞬く光のその眩しさは、そこに光を求めて目を凝らした人間にしか解らない。

 どんなに光量が弱くっても、その光の強さは確かなのです。


 もっともそれは自然現象における物理的な光に限った事では有りませんで、内なる精神上の希望、光においても同じなのです。

 だから、あんまり易々と絶望したり、捨て鉢に成ったりしないでほしい。光はどんな状況でも存在するし、それを目指すのは(先入観さえ消せば)それほど難しい事ではない。

 苦しいときは、ただ静かに瞑目し、心の目を凝らしてその光を眺めれば、どんなに小さな粒であろうと、光は確かに存在しそしてそれは確実に自分を照らしていることに気づくと思う。
 そしたら、後はその光の粒を丁寧に扱いながら、その火を絶やさず大きくして行くしかない。
 仮に悔やむ過去が有ったとしても、過去は、今はもう無いのだから、何事も今この時ここから始めるしかない。
どんな絶望的な状況であっても、ひとづつしか前には進めない

 

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 そして、どうか少しでも身体(からだ)を整えてほしいと思う。どんなに絶望的な身体(しんたい)状況であっても、あまり軽々しく未来を見据えない(例。「どーせこの体はもう直らないんだから・・」とか)見捨てないで、たんたんと今この時出来ることを最小限でも最大限でも、自分の出来る範囲で少しずつ体を整えてほしい。

 何事も身心が一如となって初めて世界が丸く自分に収まるのであって・・それは「健全な身体にこそ健全な精神が宿る」みたいな欺瞞では決してなく、ただ単に心が不完全な身体(からだ)を憎まないとか、身体が不完全な心を憎まないと言った意味で・・ちぐはぐであっても心身の和合が取れれば自ずから世界はトゲなく己の身の内に収まると言った意味で、自分という存在の手綱を握っている(と認識している)精神構造である自我という心であるアナタは、、まずそちらから身体にどうか歩み寄ってほしい。

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 って、なんかアル中のおっちゃんが酔ってせっきょーくさいことナンカ言っとるわー。てめーこそ酒に溺れた世の場末人、徘徊者、浮浪無宿の酔いどれ非人で、てめーから聞く人生訓なんぞ、説得力の欠片もねーや。やいやいやい。

 ・・なぞと申す向きも有ろうかと思いますが、あたしゃ日夜浴びるように酒を飲んでずっと暮らしてますが、一応毎度毎度の健康診断、肝機能の数値は正常値ですからね。中性脂肪に関しても、言うまでもない。

 ・・ってめーらナメンナヨ!

 こちとらアル中は承知のすの助よ。問題を言うねい。問題は起こったらかいけつすりゃいいんだ。人生何が楽しいって酒が楽しいんだ、だったら酒に合う健康づくりをすればいいんじゃないか。

 と言うことで、ラジオ体操から太極拳、週に二日のウォーキングから糖質制限、薬膳の勉強にサプリの勉強と・・まあ、アタシのことはアル中アスリートと呼んでもらって構わないくらい酒を飲むために色々ヤって居るのですが・・てか、それも割合健康に近づいた今だからこそ出来るのであって・・あたしも病気で寝暮らしたり色々あったから、いうに言うのですが・・とにかく苦しいときはどうても体に恨みをもつし…でもキモは身心一如だと思うのよ。 

 

身体と心の和合が取れていない限り何をヤっても上手く行かないし、その塩梅がちゃんといってると、まあなんとかなりますよ。

 もう酔いすぎたが故に、かなりうきとーですけどねぇ

 ベロベロばんざい
ばいばいばい

 

...いや、なんかね。みんな悩んでるなーと思って。

、、、僕も含めてなんですけど

 

名画『永遠と一日』について。または 僕が雨を待つ理由と、雨音のない月夜の話2

1

雨を待っている僕は、今もこうして窓の外から差し込む月光に照らされている。深夜二時三十分。木々の間から見える月は、やがてもう数時間もすれば、あの山の向こうに落ちるだろう。そうやって世界が少しずつ動いて、こっちが朝日に包まれる頃、この星のどこかはまた夜になる。

 

 ずっと遠い向こう側の話。

 

 今も見たことのないこの星のどこかの町で、知りもしない誰かはたぶん雨に打たれている。きっと忌々しい思いをしながら、空を睨んでいたりするだろうなんて事を空想してみる。

 

 ざまあみろ!!

 コッチは望んで雨を待って、それで全然降りはしないのだ。

 

 それで薄ら笑いを浮かべてテレビを付けた。Dvdプレイヤーを起動して、『永遠と一日』を挿入した

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僕が雨を待つ理由と、雨音のない月夜の話

あたしゃ今年で齢三十七になりますが、つい半年ほど前までは自動車免許と言う物をもっておらんかったのですな。それでようやく一念発起して取りましたがいかんせんは社会人で。僅かな空き時間を利用しての教習所通いと、これがなかなかに難儀・・と、その辺の苦労話はいつか書いたか書かなかったかちょいと失念いたしましたが、まあざっと取得に一年はかかりました。

 ので、それ以前はアタシの足と申す物は、原付バイクのみ・・いやそれかお徒(かち)かと言った案配。
 故に一事が万事お天道様のご機嫌次第・・いかんせん行動が天候に左右される始末で、ですからあたしゃずっと昔っから雨って奴をまるで天敵のように忌み嫌って居ったのです。
 まあ誰も無条件にずぶ濡れにされる事を好む人は・・そー居りゃんせんじゃろ・・。

 こう車の免許を取得してそしてマイカーを・・まあ中古ですが、コレこうと購入いたしまして。いやはやマイカーてのは非常に便利なものですな。
 まず、天候に左右されない。
 あまりカーで出掛けてずぶ濡れになって帰ってくるなんて御仁は、そりゃぁ居らんでしょうから。
 そういや大昔、「ソ連産の飛行機は雨漏りがするから、皆傘をさして乗る」なんて冗談を聞きましたが、日本産のカーに関しましては、製品が確かであります故、その辺の保証もバッチリなのであります。

 2

するってーとゲンキンなモンで、あたしゃお出かけに際して天候と言う物をあまり気にせずとも良くなったモノですから、雨への憎しみもジネン重(カサ)が減りまして・・いやいやそれどころか・・まあ、以下描写は雨の日の一段だと思いねえ。

こう出掛けに際してふと寄ったPAなんかでお茶を飲んで居りまっしゃるじゃろ?

・・ぼさーっとですよぼさーっと。

 そんな無意識と意識の狭間のような所でお茶を飲んでいると、空から落ちる水玉が車の・・僕の黒い車の屋根とボンネットと窓と問わず無秩序に落ちますな。ランダムな雨音がこう打っては響き打っては響き、そして滲み消えてゆく。

 

 

そう言えば以前大好きなアンビエント・・ブライアン・イーノの事をちょろっと書きまして、それはエリックサティから始まった環境音楽の系譜で、サティの提唱した『家具としての音楽』という発想/思想に端を発しているなんてお話を、ちょいと打ったわけなんですけども、雨音と言って、環境音楽と言えば、かなりの環境音楽ですよ?・・

 もっとも音楽という定義をどこに設えて、どのように定義するかで意味はまた変わって参るのでしょうが、規制概念の解体という(ポストモダン的?)時代作業を経て聴く雨音というものは、実に環境音楽的であるし、いやそもそも環境それ自体であるし・・と、そう言えばアンビエントの定義として、「家具としての音楽」と言う定義とは別に、日本でいち早くアンビエントを取り上げ取り入れた細野晴臣御大は、それを定義して思想的概念とは全く別次元から純粋音楽的に「響きの芸術」と定義しておりましたが、するってーと、正にこのあたしの車のボンネットや屋根をランダムに打つ雨音の波音やたちどころに消え起こる静寂や、またその最中別から起こる波音の残響、滲み、揺らぎ、などをとって、これはマッコト響きの芸術他成らん・・とか一瞬思うのですが、しかしこれは全く芸術ではないんですよね。

 何故なら芸術というのは芸の術、技であって、たとえばスプリンターが百メートルをどれほど早く走れるのか?と言うのと同じように、作者がクオリティや精神においてどこまでその高みに達せられるかと言う、イヤもしくは健全なる動議からの堕落を欲したあの坂口安吾の如き下降か。まあどっちゃにせよ我々百億万凡夫に於いては到底達することの出来ない有る種の境地への憧れ・・いわんや超人願望へのはけ口であり故に成り立つ見せ物であるわけで、てーなりますと、雨音なんて代物は、全く非芸術であるのですが、しかし「芸術的」ではあるんですよね。

この、芸術的の的がミソ、キモ、脳天ズガイでございまして・・

と。ここまで書いてアタシの底浅い芸術論はさらに先へ続くのか、ネタはあるのか・・有ったとしても酒に脳髄ヤられちまったこのスポンジ脳で、勝手気ままめくるめくまま書いたお気楽文章の後先を、明日の自分は果たして覚えてられるのか・・等という懸念が多数生じますが、酔いが回りすぎた故、唐突にここらでブった切らせていただきます。

 


はてさて、思考は混沌を極め、自然界に上る月は、何時もと変わらないはずの月は今も窓の外より乱立する木々の、林の枝の脇から僕を怪しく照らします。月の大きさは何時もいつまでも変わらないと言うけれど、しかし目の前に広がる景色との対比によって、人の錯覚を持ってして相対的に大きく感じたりするモノらしいです。
 そして僕の窓から覗く月は、あの満月はなるほどいつもより一等大きく禍々しいばかりの光線を発し、その不確かな光明がやがて滲むばかりに揺れ動いて林の陰に隠れ消える頃、しかし窓を開け空を眺めてみても空には星も雲も一つとして無いのであります。

雨はいつまでも僕の元へはたどり着きません。

 故に最近はこんな動画をみています。

 『雨音』


【作業用BGM】雨の音*1