1
呼び込みのおじさんが声を上げる。
「さぁー今からナイツの出番ですよー」
って、そりゃ本当に呼び込むだけで、まったく味わいってもんが無い。呼び込みだって芸の内、「寄ってらっしゃい、見てらっしゃい。さあさあさあ」くらいの事は言ってほしいもんだ。全然威勢が無くって、まったく誘われようって引力を感じないけど、そもそもが、此処浅草に来た理由がコレだったから、僕たちは迷わずチケットを二枚買った。もぎりが半券と一緒に黄色い番組表とチラシを渡してきた。
中に入ると、流石はナイツと思わせる客入り。席はとっくに満席で立ち見もバラバラといる。僕たちは出入り口からすぐ近くに陣取って、手すりにもたれながら彼らの出番を待った。
彼らはいつも通り。別に「はいどーもー」とか言って、セルフ拍手とともに勢い飛び出てくるわけでもなく登場して、淡々と漫才をこなしてそれでハケていく。いわゆるテンプレート――いくつかの持ちネタを切り貼りして繋げた漫才は、確かに面白かったけれど、別にライブの臨場感とかそういう事もなく、あくまで淡々と、上手い漫才を淡々と。もちろん笑うには笑ったけど、心の片隅で、これどっかで見たなーみたいな既視感が付きまとって。笑いってのは虚脱だとか意表を突くだとか、ある種のズレに唐突に立ち会ってしまったが故に起こる現象だと考えると・・・いや別にそれが悪いというのでは無いけれど。職業漫才師とは各ありきか・・なんて変なことを考えてしまったりとかなんとか。
ナイツが終わると、とたん客席はハケた。舞台がハケてそれにつられて客席も・・・人気商売にこの現象は辛かろうとか思いながら、しかし僕としてはその後の演目をソファーに座って悠遊眺められるのだから、有りがたいものだ。と、pa に「席とっといて」と言い残して売店へ。ビールを二缶買って戻って一缶をpaに渡す。冷え冷えの缶ビールは寄席鑑賞にもってこいだ。僕たちはチビチビとそれをやりながら二組おいて、舞台は小遊三さんへ。演目は『野ざらし』*1。
古典落語の一つで。枕に、件、笑点の歌丸師匠引退のエピソードをもってきてくすぐりつつ、やがて本編へ。
これには笑った。落語と言うのは台本が有って、つまり上に言うテンプレートの切り貼りやおさらいを前提として、そこに言葉の塩梅だとか間だとか、しぐさや諸々でオリジナルな脚色をしてゆくものだと思うんだけど、そう考えると、先のナイツと同様予定調和の中にあって、しかし何故か先に感じた既視感は皆無。つまり演じ方が一々うまい。あはは、あははと笑いながら、隣のpaを盗み見すると、paも笑っていて、あはは、あははと、その相乗効果で、なおも笑った。
2
それから寄席が終わって。外へ出ると、五月の光は、十七時を過ぎてまだ尚みずみずしい。日に日に落日が髄御分遅くなるから、酒飲みとしては本当は少しじれったい。だって、暗くなったほうが呑むに大義名分を得たりと言うか・・明るいうちから飲む酒は、やっぱり・・今更だけど少し世を忍ぶ。周り、スーツ姿のビジネスマンやOL諸君の目を気にして、「へっへっへ、どうもすいませんね。先にやっちゃって」みたいな卑屈さが心の中に、どうしても潜んでしまう。ああ、眩しすぎる光が、こんなにも遅々として・・なんて空を睨んでも、宇宙は僕の心なんか一向にどこ吹く風。太陽はいまだ気楽に、漫然と空中に浮いている。
「ねえ、どこ行こうか?」
「ん、お茶でも飲みにいく?」
そんな会話を交わしながら、僕たちはもうお茶なんて喫(の)まない事を知っている。足は自然と吾妻橋。あの奇妙な形をしたオブジェのお膝、アサヒのビアホールへ向かって自然と歩いている。「お茶を飲む」なんて控えめな物言いをする僕たちの、ささやかな慎み深さ。・・・と言っても今日は無礼講。だって僕たちはルヴォワール。三年ぶりに会えたんだし。
3
浅草寺の人ごみを避けて仲見世の一本裏から路地を抜けて、入り組んだ道をジグザグに進んだ。浅草の、表の顔は観光地。非日常的な異文化を味わう観光客で賑わうが、少し裏に入るとそこにはそこで暮らす人々の日常が垣間見える。狭い公園で遊ぶ子供たちは、ランドセルを放り投げてやあやあ言いながら走り回っていた。ステテコ姿のオヤジはさすがにもう居ないけれど、「ちょっとそこまで」みたいなナリで自転車をこぐオヤジは、いまだどこか昭和クサい。狭い道で立ち話をする主婦の間を縫って、ハンドルが揺れる。
日常と非日常の境目。しかし表通りにしてもそこにはそこで観光客(非日常)を相手取って切ったハッタを繰り返す人々の日常がまたあるわけで・・・その点はナイツに於いてもしかり。毎度毎度新ネタを降ろすわけにもいくまい。切り貼りした得意ネタの披露は、非日常的な新鮮さを求める僕からすると、いささかの物足りなさをもたらしたが、それはインターネットの弊害だろうか。たぶんそうだろう。実際僕は彼らの漫才をネットで知り、ファンになって其処此処に落ちているネタを見漁った経験がある。
過去も今もすべての行いを同時刻的――全てを平坦に扱うことのできるあのツールは――だから僕は彼らが十年前にやったネタだとしても、仕事の休憩中なんかに簡単に今として享受することが出来る。故の既視感というか・・何でもかんでも今すぐに出来ると言う事は、未来の楽しみを待ちわびる味わいが薄れたと言う事だ。日常と非日常の境目が――ハレとケの陰影が極端に薄くなっている。
paはさっきから蚊柱を気にして手を右左に仰いでいる。それがおかしくって、僕も真似をした。
路地を抜けて大通りへ出ると、空気の滞留がいっぺんに放たれて、排ガスにまみれたこの街にもそれなりの開放感をもたらした。僕たちはたったそれだけの事で、新鮮なおかしみを覚えて、笑った。
初夏と言って新緑の何も嗅ぐわないのに、風は新しい季節の到来を僕たちに告げた。
それはほろ酔いのせいか、再会のせいか。僕たちは滞留した今すぐに体験できる気軽な今ばかりを繰り返して、何の驚きも感動も薄れてしまったというのに。まったく、僕たちがまたこうやって一緒に歩けるってのは、ホント奇妙で・・奇跡みたいだよなと、僕は思った。
*1:
野ざらし[編集]
ある夜、八五郎が長屋で寝ていると、隣の女嫌いで知られた浪人・尾形清十郎の部屋から女の声が聞こえてくる。
翌朝、八五郎は、尾形宅に飛び込み、事の真相をただす。尾形はとぼけてみせるが、八五郎に「ノミで壁に穴開けて、のぞいた」と明かされ、呆れたと同時に観念して、「あれは、この世のものではない。向島(隅田川)で魚釣りをした帰りに、野ざらしのしゃれこうべ(=頭蓋骨)を見つけ、哀れに思ってそれに酒を振りかけ、手向けの一句を詠むなど、ねんごろに供養したところ、何とその骨の幽霊がお礼に来てくれた」と語る。それを聞いた八五郎は興奮した様子で「あんな美人が来てくれるなら、幽霊だってかまわねえ」と叫び、尾形の釣り道具を借り、酒を買って向島へ向かった。
八五郎は橋の上から、岸に居並ぶ釣り客を見て、骨釣りの先客で満ちていると勘違いし、「骨は釣れるか? 新造(しんぞ=未婚の女性)か? 年増(としま)か?」と釣り客に叫び、首をかしげられる。
釣り場所を確保した八五郎は、釣り糸を垂らしつつ、「サイサイ節」をうなりながら、女の来訪を妄想するひとり語りに没頭しはじめる。
- 鐘が ボンとなりゃあサ
- 上げ潮 南サ
- カラスがパッと出りゃ コラサノサ
- 骨(こつ)がある サーイサイ
- そのまた骨にサ
- 酒をば かけてサ
- 骨がべべ(=着物)着て コラサノサ
- 礼に来る サーイサイ
- ソラ スチャラカチャンたらスチャラカチャン
そのうちに、自分の鼻に釣り針を引っかけ、「こんな物が付いてるからいけねぇんだ。取っちまえ」と、釣り針を川に放り込んでしまう。
※多くの演じ方では、ここで噺が切られる。
八五郎は釣りをあきらめ、アシの間を手でかきわけて骨を探すことにし、なんとか骨を見つけ出すことに成功する。八五郎はふくべの酒を全部それにかけ、自宅の住所を言い聞かせ、「今晩きっとそこに来てくれ」と願う。この様子を、近くの川面に浮かぶ屋形船の中で聞いていた幇間の新朝(しんちょう)は、八五郎が普通の生きている女とデートの約束をしていると勘違いし、仕事欲しさで八五郎宅に乗り込む。
女の幽霊が来ると期待していた八五郎は、新朝を見て驚き、「誰だ」とたずねる。「あたしァ、シンチョウって幇間(タイコ)」
「何、新町(=浅草新町)の太鼓? ああ、あれは馬の骨だったか」(浅草新町には、かつて多くの太鼓屋が立ち並んでいた。かつて和太鼓にはウマの皮が用いられていた。「馬の骨」とは、素性のはっきりしない人物のたとえ)
ウィキペディアより