コトバ 風物 ジッタイ

ゲンショウの海に溺れながら考える世界のいろいろな出来事。または箱庭的な自分のこと。

お上りさんケンブン禄① 出立編

 

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 1

 

 午前八時三十分、いつもの時間。

 

 「んじゃ、お先にー」

 

 と、引き継ぎに来た同僚に声をかける。心がけていつものタイミング、いつものテンションで。しかし心はいつもと少し違う。僅かに上ずっているのが分かる。タイムカードを切って、手早く着替え表へ出ると、五月最後の日は晴れていた。

 

 「こりゃあ、いい天気になるなあ」

 

 一緒に表へ出た先輩がそう言い

 

「お前今日いくのか?」

 

 とつづけた。

 

「ええ」

 

「こりゃあ、向こうは暑くなるぞ。おりゃ、今日は畑だ」

 

出入りする業者のトラックがはけるのを待って、咥え煙草に火をともす。後ろ姿で手を振って「おお、土産はいらねえからよ」と半笑いで言い捨てて、僕の返事も待たずにもう車のエンジンをかけていた。

 

「ご心配なく。はなっから、そんなつもりは有りませんから。」

 

 

 いったん家に帰り、手早く準備を済ませた。

 

 くたびれた足にドクターマーチンが少し重たい。ヘッドホンを首にかけたままプレイヤーをランダム再生にすると、民族音楽のようなドラムが聴こえて、canVitaminCが始まった。ジャーマンプログレッシブ。ダモスズキがひどい日本語なまりの英語で「ねえアンタ、アンタにはビタミンC が足りてねえよ」と歌っている。

 


CAN - Vitamin C

 

 「ねえ、おでかけするの?」

 

 と四歳になる甥が近づいてきて聞いた。

 

 抱き上げて・・・四歳児の体は結構重たい・・・「そうだよ。東京に行ってくるんだ」と返すと

 

 「僕も行きたい!!」

 

 「もうちょっと大きくなったら、行けるかな?」

 

 と言いながら、彼の体を二度高く上げる。三年前、まだ一歳の彼と姉夫婦と向こうの家族と僕とで東京に旅行した事を、もう彼は覚えていないのだろう。あの頃は抱き上げるのも、高い高いも、とてもたやすく簡単にできた。

 太陽が彼の頭の向こう側で光を降ろす。

 

 「ねえ、いつ帰ってくるの?」

 

 と聞く甥を静かにおろして、「明日には帰るよ」と、答えた。

 

 3

 

 奇しくも同じ日、同じ時間の切符を買っていた母親と一緒に電車に乗った。平日の上り電車はそれほど混んでいなくって、僕らは横並びに座った。

 彼女は電車に乗ると三秒で寝息を立てる癖がある。大昔、ちょうど今の甥と同い年のころだと思うけど、初めて電車に乗った僕は、降りる駅になっても眠っている母親の隣で一人、オカアサンが起きなかったらどうしよう・・と、ひどく心配になったことを覚えている。

 耳にはめたヘッドホンはレモンジェリーのロストホライズン。これから来る夏のような音楽。反復するリズムとキラキラしたアコースティック。

 


Lemon Jelly - Closer

 

 鞄を開けて荷物を確認した。

 

 本を二冊と歯ブラシ靴下、保湿剤日焼け止め、財布、音楽プレイヤースマホ。だいたい合ってる。たぶん大丈夫。

 

 僕らが旅に出る理由を。

 絶え間なく続く生活のはざまで、息苦しくなったなら、少し見ける景色を変えてみるのもいいかもしれない。水面に顔を浮かべる魚のように。

 ささやかれど、やくにたつ事。

yutoma233.hatenablog.com

 先日読んだ小野さんのブログ記事が、妙に心に残っていた僕は。旅といってもたかだか一泊二日の、かつて住み慣れた街を久々に訪れるだけのものだけれど・・・それでも、今回の上京に際して、僕は、なるべくブログを書いている人らしく振舞おうと決めていた。例えばまめに写真を撮るとか、思ったことをメモっとくだとか・・・そしてささやかだけれど、何か旅行記の欠片のようなものでもちょこっと書ければいいと思っていた。その為にコンビニでメモ帳を買ったのだ。

 

 だがその肝心のメモ帳が、鞄に入っていないことを、この時の僕はまだ気が付いていない。

 

 4

 

 睡魔がどっと押し寄せるなか上り電車は、ずんずんと進む。山が右から左へ、川に人里が飛び越えて。雲が流れるより早く、いくつも消えてゆく。

 プレイヤーの停止ボタンを押して、本を取り出した。

 一冊は、沢木幸太郎の『深夜特急 トルコギリシア地中海』。もう何回も読み返したこの本は、はき古したスニーカーのようにボロボロで、所々にセロファンテープの補強がある。いつも持ち歩いているから、こうなる。かりに読む事が無くっても、この本を手元に置いておけば、どんなケチな旅行でもまるで遠くへ行くための始めの一歩のようじゃないかと・・勝手に思い込むことができるから。・・・いわばお守りのように。

 

 それから、『哲学のアポリア』。

 

 どちらを読もうか迷って、『深夜特急』を鞄にしまった。車内販売のお姉さんが来て、ビールを・・と言いかけてやっぱりお茶をもらう。一口飲んでから、ページを開いた。

 

 「第五章 人格の同一性の問題」

 

 この章で、著者は「人格」というものがどのように存在しているのかを論じている。簡単に言うと「わたしとはなにか?」という問題だ。

 

 人間束説、人格霊魂説、分離脳、テセウスの船と眠気の中で、聞きな入れない言葉をせっせと処理しているうちに、意識がだんだんと遠くなってゆくのがわかる。まどろみへ。

 

 スマホの振動が太ももから伝わり、目を覚ました。

 待ち合わせしている友人からのメッセージ。

 

 「もう新宿ついた?」

 

 窓を見るとなじみある景色。街並みの雑踏も煩いくらいの看板も、特急の中から眺めると標本のように他人事のように見える。

 移動速度が速いと、変化のグラデーションが感じられない。A地点からB地点へ。唐突にさっと・・気が付けばもうそこにいる。

 

 「いま中野」

 

 と返して、本を鞄にしまう。母親が起きて「寝ているとすぐ着くから、いいね」と言った。僕がロングスリーパーなのは、きっとこの人の血だろう。

 車掌のアナウンスがあり、ほどなくして新宿についた。

 母親とはここで別れた。

 

 「楽しんできてね」

 「はいはい」

 

 ヘッドフォンを耳に当てて、再生ボタンを押す。ワナダイス、ユーアンドミーソング。

 


The Wannadies - You and Me Song

 あのころ聴いていたギターポップが、懐かしい人ごみの中で溢れるように鳴り響いた。