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酒の井戸

アルコールの海に溺れながら考える世界のいろいろな出来事。または箱庭的な自分のこと。

何もしないということをする・・・座禅について少々

日記 歴史 生活 読書

 

 序

 

 ほっとくと、すぐブログ更新が五日ぶりとか六日ぶりとかなるのな。おっそろしい。ゴーストライターでも雇おうかしら。って、駄目ジャン、赤字ジャン。別にアフリエイトとかやってるわけでもなしに、出銭ばっか増えちゃっちゃーまったく。やれんよ。毎日、一記事でも二記事でも書いて更新すれば・・・出来ればよーござんすけどねぇ。ちょいと何処かへ出掛けた・・・「○○公園に行ってきました!」みたいな行動報告とかどこぞのメシを食べたみたいな・・・せっかくブログなんだからそーゆーことを書いてみたいんだけれど、いかんせんあたしには言葉が見つからない。

 

 マッタク、イッタイ。

 

 「ありとあらゆる言葉を知って、何も言えなくなるなんて・・・そんな馬鹿な過ちはしないのさ」

*1

って、小沢健二さんが昔唄ってらっしゃったけど、ワタクシという人間はナニブン業深き生き物で御座いまして・・・

 

 行動報告が出来ないので、行動しなかった報告をば以下。

 

 

 1

 

 残業で仕事を終えた時はもう時計の針が零時を回って。帰ってシャワーを浴び、目覚まし時計を三時間後にセットする。

 

 早朝座禅会。

 

 少し休んで出掛けようと横になったら寝過ごしてしまった。

 ダライラマさんの言葉を思い出す。

 

 「瞑想は始める前が一番難しい」

 

 もっとも、今回参禅がかなわなかったのは、単純に肉体疲労が無理な起床を許さなかったからで。かの御方の言葉が意図するところとは、少し違う。

 

 「テスト前にさ、勉強しなきゃなってそれは分かってんだけどさ、いざやろうとすると、部屋がちらかてるっとかそんなことが妙に気になって、なんか手がつかなくってさ」

 

 なんてことを当時大学に通っていた友人が笑いながら話していたが、上の言葉をおおよそざっくばらんに解釈するなれば、要するにそういうことだろうと思う。

 

 本当に大切なこと、しなければならないこを、しなければならないと認識すればするほど、プレッシャーがかかって先送りしてしまう。心理学用語で「セルフハンディキャッピング」と言うらしい。

 

 今知った。

 

 日曜座禅会と称した、寺が在家の一般信徒向けに禅堂を開放している催しに通うようになって、早三年。しかし仕事柄休日が不定期なので、月に一度か二度参加できれば・・・と。また上のようなイレギュラーも多々あり下手したら二ヶ月に一度と言った超マイペースなお付き合いをさせていただいてる。

 

 もっとも菩提芯*2と言って欠片もないから、とうてい仏教徒には成れないし。このいい加減な性格は宗教人には向かないので、はなっからその気もない。

 

 これで良いと思う。

 

 にも関わらず、行ったら行ったで一柱*3ほど座り、仏前で五体投地*4、読経に焼香。と、その時だけは月並みでもかしこまって信者っぽいことをやっているのだから、たまに可笑しくなって、笑ってしまいそうになる。

 

 「俺、なにしてんだろ?」

 

 的な心境を片隅において、一生懸命唱えるお経がダイヒシンダラニ。

*5

 

 

 

「なむからたんのーとらやーやー。なむおりやーぼりょきーちーしふらーやー」

 

 少し勉強したので、最近は意味をわずかながら理解しているが、最初の頃はこのあまりにも奇妙な音にわけもわからず、良い意味で戸惑った。

 

 シュールで、不思議。

 

 お経の大半は、サンスクリット語で書かれている。それをインドから中国に輸入した際無理やり音だけを移して漢字を当てた。・・のを、更に中国から日本へ遣隋使とか遣唐使だとか、先進国の高度な文化を取り入れようと努力した結果、このとてもシュールな音律になっているのだと思うと、感慨深い。

 

 壮大な伝言ゲームみたいなものだろう。

 

 妙にべた足で日本語的な発音の・・・しかし決して日本語にはない音。色々まざくりあって、かつて外国語だったがもう何処の国の言語でもない・・・

言葉を失った(超越した?)奇妙な音の連なりが出来上がっている。

 

 3


「雲堂」 how to 坐禅【日本語】

 座禅をしていると、人間の思考がいかに自分自身のコントロールの利かないものかが身にしみる。「我思う故に我あり」と言うが、自己の主体性なんてものが疑わしくなるくらい、自分自身の望む望まないを関係なしにのべつまくなし「思う」が浮かんで止まない。

 普段生活をしている時は、何か目的をもって行動しているので、思考の糸(意図)は、目的に向かってより合わさって一本の筋となっているから、自己というものが確立されているように感じられるが、座禅のように、ただ座って何もしないと言うことを実践していると、これがとたんに怪しくなる。目的地の定まっていない思考は、簡単にほつれてめいめいがてんでちりばら・・勝手に騒ぎ出す。

 

 心のどこかで朝食の事が浮かんだかと思うと、別の場所では仕事のあれこれ。また別の場所ではブログの新しいネタを・・酒が飲みたい、友達と遊びたい、セックスが、恋人が、新しいCD、昨日買った本、同僚でむかつく奴が・・・etc

 

 師匠(と勝手に呼んでいる住職)が、「無心になれといってやって出来るものではなくて、心に浮かぶ戯言に取り合わないで受け流していれば、結果的に無心になれる」と言っていた。

 

 成る程なと思う。

 

 要するに、人間の思考と言うのは、主体的な「我思う」から思ったのではなくって、現象に対するカウンターとして「思う」という作用が発する。

 

 山田をむかつこうと思ったからむかつくのではなくって、山田が仕事でミスしまくるから、それを受けて「むかつく」という思念が発する。

 

 というように。

 連想ゲーム。

 

 座禅において、何もしないと言うことを実践すると、しばらくはあれこれと騒ぐが、新しい情報の供給をやめてしまえば・・・無くなった思考は餌を求めて、過去の記憶をまさぐりだす。

 

昔付き合った彼女との記憶、テストで赤点を取った・・・ああすれば良かった、こうすれば良かった。

 

 が、それもしばらくそのままにして、ほったらかしにしておくと、やがてネタが尽きて、考え、思い、思考のノイズが止み、相対的に何もないが故に、自然とそこに「無」が生じる。

 

 

 4

 

 って、まあ、わーわー言うとりますけど。

 

 行ってないんですけどね。そう、行ってないの。 行ってない癖にまあしゃーしゃーと語りますワナこの男は。座禅について。さも先ごろ、ちょぴと座ってきましてんみたいな語り口で・・・どの面下げて「無が生じる」じゃいと、あまりの厚顔無恥さに書いててあたしゃあたしで驚いた。

 

 あほかと。

 

 もー、笑いが止まらんくなりそうなので、今日はこの辺にしときます。

 

 禅宗について、いささか観念的ではありますが面白い記事があったので、備忘の意も含め、ここにはっつける次第。

 

 

jougetu.hatenablog.com

 

 

ではでは。

 

*1:ローラースケートパーク

*2:簡単に言うと悟りを開き解脱を求める心

*3:曹洞宗では線香をたいて、その香の燈っている間だけ座ります。これを一柱と言い、お寺によって違いますが大体四十分から六十分ほどです。

*4:釈尊に帰依する作法

*5:

大悲心陀羅尼

 

大悲心陀羅尼 - Wikipedia