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谷戸城跡は山梨県北杜市大泉村にある史跡である。もっとも城跡と言っても天守閣が再建されていたり、石垣が残っていたりするわけでは無い。ここは田舎。田舎も田舎の果ても果て。んもう何百年も前から変わることの無い筋金入りの超弩級ど田舎なのである。田舎の山城。だから何もない。一見するとただの小山なだけである。・・と言っても現在は公園として整備されていて、それは中々に行き届いたものだと思う。駐車場もそれなりに広さがあるしトイレも完備されている。考古学博物館が併設されており そういったものが好きな人には立ち寄る価値のある場所だろう。
それに何よりここは桜の名所と言うではないか。
北杜市観光協会のサイトである『ほくとナビ』には、「 春には山全体に約400本のソメイヨシノや八重桜が時期をずらして咲き誇り見事な景観に圧倒されます。外苑を回る遊歩道があり、木々の間から見る八ヶ岳や富士山、甲斐駒ヶ岳のパノラマが絶景です。1993年に国指定史跡となり、施設整備が進められ、 郭や土塁などが昔のように復元されるなど、在りし日の姿が蘇りつつあります。」とある。
この谷戸城跡は前々から地域の人の花見スポットであったらしく、それを取り上げたテレビ番組か何かを目にした母親が行ってみたいと言うので、先日時間を合わせて出かけることにした。
我々が出かけたその日は満開というよりは散り始めのころで。晴れ間の光線を弾きながら風に揺さぶられるままにちらちらと花びらが辺りを舞い散る様はなかなかに幽玄なものであった。
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しっかし、城跡と聞くととやはり連想してしまうのが戦国中期から始まるあの平山城とか平城とか言った形式の・・例えば安土城や大阪城のような石垣が積まれ天守を中心に囲まれたあの姿を想像してしまうが、そもそもこの城は時代が違い・・ 正確な築年数と言って定かではないが 平安末期から鎌倉初期のもので、築城者も果たしてこれといって特定されてはいないのだが 黒源太清光ではないかと推察されている。
この黒源太義満と言う人は、あの有名な八幡太郎義家の弟の新羅三郎義光から二代後の人間で、甲斐源氏三代目当主である・・らしい。
そこから流れに流れて戦国の世に全国に名をはせる信虎、信玄、勝頼の戦国大名としての武田家につながっていくのだから感慨深い。
そもそも甲斐源氏武田氏の武田とはなんぞや?と言う話しであるのだが、もともと「父の義清は常陸国那珂郡武田郷(茨城県ひたちなか市武田)を本拠とし武田冠者を称しており、清光も武田郷で生まれる。1124年(保安5年)、源義国の加冠によって15歳で元服。1130年(大治5年)、清光は一族の佐竹氏(伯父佐竹義業の系統)と争い、朝廷より父とともに常陸から追放され、甲斐国八代郡市河荘(山梨県西八代郡市川三郷町)へ流罪となる(源師時の日記『長秋記』、『尊卑分脈』による)。」ということらしい。あ、このへんはウィキペディアより引用。
・・なんや甲斐関係ないやんけ。郷愁か?
いやいやいや。
んーと。
平安末期の地方の治安なんてまあ崩壊しているようなもんだ。モヒカン男が「ヒャッハー!!」している某漫画とそう大差ない弱肉強食な世界なのであって・・。
つまり、もともとは茨城の辺りで「全国制覇マジ気合い全開ヨロシク!!」とかいってバイクならぬ荒馬乗り回してブイブイいわせてたのだが、ちょいと問題が過ぎてしまったが為に公権力(朝廷)から「おまえちょっと向こう(もっと静かな田舎)行けや。あそこなら問題起こしようもねーだろ」とか国替えされてしまい、この地に流れてきたと言うことなのだろう。一応、流罪という体だが屋敷を構えたり城作ったりしてるしね。着の身着のまま放り出された俊寬よろしく喜界島みたいなイメージとはちょいと違う。
それで、「いやー落ちちゃったね甲斐国。甲斐国。信じられます?まあ前々からね・・前々から・・そりゃ聞いちゃ居たけど、実際住んでみると改めて田舎だなーって。んでもまあ拠点も作ったし・・いや、流罪ったって言って我々清和源氏の流れくんでますから。権威ありますから・・その辺は一応。なんつーかあんま大きい声じゃ言えないんすけどこの辺の田舎土民なんぞ都から持ち帰った「清和源氏」ってひれ伏すくらいですわって・・あはは。イヤでもちょっとなまった感もある。いや実際田舎民ブランド弱すぎ。いーんだけど。なんかな。正直なんつーかあのブイブイ暴れ回った栄光の武田郷時代の思い出が忘れられねーな的ななんか・・。だって喧嘩上等の佐竹一党との抗争の日々。懐かしいよ。熱かった。いや結構本気だったからね。だって向こうが本気で殺しに来るんだからね?だったらこっちもやるしかないっしょ。本気の殺し合いだった。きつかったよ。正味当時はきつかった。仲間が何人もやられて・・もちろんこっちもキッチリ返しは取ってって・・それでの連続で。・・まあ消耗戦。だからいつ誰が殺されてもおかしくない状況だったからね。・・まあでも。ま俺はいつ来られても帰りうちにしてやる自信あったからヨユーだったけど。ドアの鍵とか開けてたからね。・・でもまあ、あの頃に戻りたいかどうかって言われたら五分五分っすね。いや、忘れたわけじゃねーよ。忘れるわけねーじゃん。絶対忘れねーよ。死んでいった仲間達の事は!!」みたいな感慨があったんじゃないかと、勝手に推察してみる。
・・故に「えーい武田郷から遠く離れても心はずっと武田にいるかんね!!」みたいな少年漫画っぽいヒロイズムから武田と名乗ったのではないか?とか勝手に断定してみたりして。
・・・。
そいで・・まあその流罪でこの甲斐国に来たのは父親の義清さんて人で、まあこの人は甲府盆地周辺を拠点に活動していたのだが、その息子さんの悪源太義弘さんって人は現在の北杜市周辺で活動していたと言う記録が残っている。故に、この谷戸城は上にある「築城者も果たしてこれといって特定されてはいないのだが 黒源太清光ではないかと推察されている」という文に繋がるのである。つまり、築城主が誰々という文言は残っていないし証拠も無いのだが、状況証拠としてそうなんじゃないかな?って感じで現在はそう考えられていると。
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さてその後谷戸城が歴史の中で再び名前を出すのが、時間を大分すっ飛ばした後の..それこそ戦国の世のこと。本能寺の変後の三河徳川と相模北条の「天正壬午の乱」での事。
・・本能寺の変後と言うことは、当然武田家は滅亡した後の話。
当時織田領となっていた甲斐国で本能寺の変の影響で混乱が起き一時的な空白地になっていたと。織田信長の天下布武・・天下の大勢はほぼ決したかに思われた所、とんでもないちゃぶ台返しがおこったわけで・・すかさず甲斐国は空白地として徳川北条のおいしい餌狩り場になったとそう記録は語る。その時北条方の拠点としてこの谷戸城が使われたらしい。
そしてその後豊臣政権から徳川政権と時代が移り変わり、天下太平の世の中でもともと国境の山城=境界の砦的な役割のあったこの城は必然的にその役割を終えた・・と話はそうまとまる。
上に述べたとおり築城年は定かでは無いが平安末期から江戸初期頃まで何らかの拠点としてこの城が使われていたと仮定するならば、実に四百年はこの城は何らかの形で現役の城という立場を維持していたことになる。実に息の長い使われ方をした城だと思う。
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息の長い使われ方をした拠点・・と言う話しで思い出したが、平安の世から数えても遙か昔、縄文の頃。八ヶ岳南麓は黒曜石の宝庫であった。黒曜石というのはまだ鉄器や青銅器などの精製が不可能であった当時の技術力において、かなり重要な武器・・例えばやじり、や槍の先端など・・それは対人も勿論狩猟採集の多くの場面において砕けば簡単に鋭利な刃物丈の形態になるこの石は当時の人たちにとってかなり重宝されたモノであった。そして、その黒曜石産出の中心となり文化的に随分栄えたのが現在の長野県茅野市だとか諏訪市近辺であった。
例えばこの八ヶ岳南麓から産出された黒曜石を求めて遠く関東平野の海ぞいの集落からはるばる旅をしてきたのだろう。縄文人の交易ネットワークは現代人が想像するより遙かにグローバルなモノだったと現在の研究では分かっている。そして僕の住む信州の諏訪文化圏はその一つのキーポイントになっていた。
そして、今回のおはなしの中心である北杜市大泉もまあその文化圏の一端で。
この谷戸城跡からも縄文期の土器等が多数発掘されているらしい。故にここは拠点という面では軍事的な意味合いでの拠点である「城」となる以前から何らかの形の拠点として数千年単位で使われ続けた土地であるのかも知れない。関東平野から海産物を背負い山の産物を求めはるばるやってきた出先機関みたいな役割があったのかな?とか何の根拠も無く素人考古学者的な推測をしてみる。
実に感慨深い場所である。
縄文の昔から・・という話しで繋がるのが上にも書いた併設されている考古学博物館と言うことになるのだが、今回の訪問では残念ながら休館日に当たってしまって、見学できなかった。また別の機会に伺いたいと思う。
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今回撮った写真を全部一辺にあげるとブログが重くなってしまうので、複数の記事に分けました。
以下の記事にも谷戸城の桜の写真が記録されております。よろしかったらご覧ください。
撮影機材