目を覚ますと、雨音が聞こえた。この地方で冬に雨音を聞くのは、例年ならばなかなか珍しいが、今年はそうでもない。これで三度目の雨。だんとうだんとう・・・だと、盛んに言うが。カーテンを開けて外を見ると、アスファルトがじっとりと濡れて、さらに落ちる雨粒を。ポタポタでもポツポツでも無い。これは擬音にしたらなんだろうと思いながら、しばらくその弾く様を眺めていた。
カーテンを閉じる。エアコンのスイッチを入れて。
雪は周りの音を消すと言うが、この連続的に続く打ち止まぬ音もまた。辺り一切に静けさをもたらすのだろうか。誰もいない。誰も、活動していないような。ただ雨音ばかり。
・・・・・雨音以外聞こえないので、少し不安になった。
と言う塩梅で、実に静かに、しめやかに前回の続きを書きます。(小声)
江戸時代の酒とは。
てえ、 えー (大声)。
張り切ってまいりましょう!!。
人類の歴史は酒とともに歩んだなんて、一説にはそう語られるくらい、実に歴史の深いもので御座いますが。では、日本酒てえのはどうか?と考えて見ますと、米を発酵させて酒にしたと言う発想は、かなり前からあったみたいで。ですが、こんにち私どもが日頃嗜む日本酒、清酒と言う形になったのは、室町のころに遡るそうです。それまで甕(かめ)で製造していたのが樽という、おなじみのものに変わりまして、甕ってのは陶器で、樽は木製ですから、大きいサイズが作れるようになった。大量生産が可能になったと。それから米ですな。米が原料ですから、とにかく米のクオリティが重要であると。その頃になると精米技術なんてのも発達してまいります。玄米から精米した白米に変わりそんな風に、現在の日本酒の雛形となる製法が、確立されて。それは摂津の酒作りが、必死に守ったので御座います。
つまり 上方。近畿のほうが先行であったと。
そして、上方からこっち、江戸に持ってくるのには、最初は陸路で馬を使ったそうですが、やがて酒の消費量が上がるにつれ船が主流に。そりゃあそうでしょう。大型トラックなんて便利な物は無い時代です。アータ。あんな重たい酒樽なんて物を、大量に陸路で運べば馬が潰れるなんてのは手習いの坊主でも簡単に勘定できまさぁーな。
しかしいっくら大量に運んだとて、そりゃあ輸送コストてもんが・・・そりゃあ向こうからドンブラと運ぶったって海運技術だって今ほど優れておりませんから、凪、時化なんぞの影響も受けます。遅延もあるでしょう。下手したら難破なんて危険もあったのですから、輸送たって難しいもんです。
故に、下り酒・・・この噺で言うところの「ダリ」ですな。も、大変高値となった。
そこで当然の発想として、じゃあ近場の酒場から仕入れりゃあ良いじゃないかいと、当然にそういう発想になるわけで、当然関東にも造り酒屋が有ったそうですが、いかんせんクオリティが低い。はっきり言ってまずいと、あんまり人気が無かったそうです。これがサブロクですな。三十六文でサブロク。
因みに、よく言われます「てめーの話しはくだらねえよ」の「くだらない」とは、「下らない」。悪い酒を「下らない酒」と言ったところに、語源がある由。
話を進めましょう。
今日も酔ってべランメイになる前に、少しでも先へ先へと。
どこまで書いたっけな?豆知識みたいなのも入れすぎるのも考え物だよな。話が途切れてワケ分からんチンになる。自分の書いた文章ってのは、恥は掻き捨て的に、まあそういったノリでやってますから、あんまり読み返したくないもので・・・って。
えーと。そうだ。殿様のところに酒が運ばれてきましたと。そこまで前回書いて。その続きであった。・・へえ、その続きです。
冬に酒ってのは良いもんですな。アルコールと言えばビールだとかワインだとか。ウィスキーと色々ありますが、冬に召し上がる酒、日本酒ってのは格段に美味しゅう御座います。
件の殿様も、またダリを召し上がられ、ねぎまをつつき、よほど好みに合ったんでしょうか、
「これ、ダリの代わりをもて」
「へい、ダリ一升おかわりぃ」
と、酒を二本召し上がって、まあ良い塩梅に。
「これ、三太夫、三太夫」
と、殿様がそこに控えていた三太夫さんに声をかけます。もう三太夫さんホンット・・・ほとんどずっと空気でしたからね。あたしだって、その存在を忘れていたほどですケド。。。
しっかし、宮使いとは辛いものですな。この三太夫さん。目の前で殿様が酒を飲んで美味いもん食ってって、ご機嫌にやってるところを、じっと。じーっと眺めて、そこに控えて居なきゃならないんですから、そりゃあたしに言わせりゃ、拷問に近い物がある。これが現代でしたらパワハラ(?)だなんだと、訴え出ることも可能なんですから。まあ、さりとて別に現代が最高にハッピーだぜ!!とも思いませんし。いつの時代が良かったなんてのは、そう軽々しくは言えないもんで。技術や文化が上がり、何かの問題を解決するとまた新しい問題が露見する。いつの時代も人間が感じる幸福や不幸なんてのは、その中身は違えども大体同じような分量で。皆悩み苦しみ、または、アハハ・アハハてな笑い。時に陽気に、また陰気にてな繰り返しで。と思ったり。
また、
確固たる固体だと思っていた自分自身は、しかしこの時代のたかが一つの構成要素に過ぎない。そこらに転がるパーツに過ぎないんじゃないだろうか?と、思ったり思わなかったり、もするのであります。
って、なんとも陰気な幕引きですけど。
ではまた次回へ。