序
どうも、どうもと。
エー風邪を引いてしまいまして。熱鼻喉、そいで筋肉痛とお決まりフルコース。まー酷い目にあった。いえ、もう随分回復したのですが、喉だけが依然・・・一週間もこんなつぶれた喉でがらがら喋っておりますと、あたしゃ二丁目の飲み屋でオネエでもやっているような気分になるわよ。いやぁね男ってのは、ほんっと自分てのが無いんダカラ。
まあ、良いのよ。アタシはアタシ、ヒトはヒト。みんな人それぞれよね。男はあーだとか、女はこーだとか、ブロガーはどーだとか言っちゃいけないわ。アタシ、そー思う。
よく「ブログ初心者は毎日記事を更新しろ」とか言うけれど・・アタシみたいに引越しだとか風邪だとか、いちいち理由をつけてブログ更新しないブロガーがいても、いーと思うの。オネエサンほんとそう思う。だから何だって?知らないわよ。知らないわよ。ふん。アタシにはわからないわ。
って、いったいなんなんだと。
まあ、いいんですけど。
えーと。下から始まります文章は、そんなわけで寝込む前に書いたものに、継ぎ足しますを・・てなわけで「黄金連休が終わって」なんて書き出しで、ジャッカン時節とずれをきたしておりますが、まま、その辺はご勘弁の程。
1
はあ、黄金連休がおわって。あたしは仕事柄こういった暦、カレンダーの運行とは全く無縁の生活を送っている・・・筈なのに、何年振りでしょうかな、先達て実家に引越し、戻ったと。そのあおりをモロに受けまして、入れ代わりで現れるオジキ衆と、夜は深酒昼は変わらず仕事とそんな生活を一週間もおくって。全くぼろぼろに・・疲れ果てて、昨日ようやく一日休みが取れました。
ちょうど潮が引くように人々の足音が途絶えて、しんとした家に。家族も皆めいめい仕事だナンダと出かけて、ぽつんとあたしが一人。春風が窓から流れて、心が洗われるてのはまさにこれかと。誰もいない客間のソファーに寝転んで、実に幸せなイットキを。そいでビールでも呑もうかと思って、栓を開けたのですが。体が受け付けない。少し舐めただけで止めてしまって、あとはだらだらと本を捲ったりうつらうつら。
アンビエントミュージックなるものを、聴いておりました。
2
エリックサティという十九世紀末に活躍した音楽家の提唱しました『家具としての音楽』と言う概念は。つまりそれ以前の音楽、主体的に鑑賞する、聴くことを目的とした音楽ではなく、まるで家具がそこに存在するように・・・当たり前に並べられた家具は、人々の意識上にいちいち取り上げる事はないが、しっかし、調和の取れた家具のデザインや存在は・・・・・いちいち一つ一つとって「この椅子えーわー」とか「この机のデザインは素敵すぎる」とか認識しなくとも、しっかしふしぎふしぎ。なんとなく全体的にすごい良い雰囲気の空間とかがあると、なんとなくこの空間ぐっとくる・・みたいな。
そいで、なんでかな?と。そこにある家具だののデザインだとかバランスだとか、レイアウトの調和、または響き、なんて事に改めて意識して眺めてみると、一つ一つの椅子や机のデザイン製法は実にグッドで、如何にも素晴らしい。し、それに、それらが並べられてる間隔つーの?間の取り方つーか、隙間、距離感も、よくよく眺めると実に計算されていて、響きあっている。
その総体として実にスンバらしい空間が成り立っているよねみたいな事が。
なんでもよーござんすが、例えばシャレ乙なカッフェとかにお出かけ遊ばれて、何かミョ-にここは居心地が良いなと思って、よくよく観察してみると、上のような巧妙に計算された調和に気がつき・・そーだったんだ。なーるへそとな、そんな経験をした御仁も、ままいらっしゃるんじゃないでしょうか?
サティの『家具の為の音楽』という思想はそういった現象の、より多次元化を図る試みであったと申しましょうか。能動的な鑑賞を目的としていない、そこに、あたかも家具のように、素晴らし椅子や机やそういった諸々が存在的に果たしている役割「環境のクリンネス化」と言う事を目的とした、鑑賞を目的としない・・・言うなれば聴かれない、聞く・・いえ聞き流すためのミュージックの提唱であったのですが。
いかんせん、十九世紀の世のこと。
聞き流される音楽といって、しっかしそれはプレイヤーにとってはどうなんでしょうか?
妻ランク内科医?
あいや
ツマランくないかい?
だって、一所懸命。誰も聴かれない事を目的として奏でているなんて、そりゃあアータ、空しかろうと。そーでしょうな。
それに肝心のサティが作曲した『家具の音楽」は結構好評で・サティ自身が「聴くな」と勧告したにもかかわらず、皆が聞き惚れてしまったという・・・天才ですな。
しっかしサティの意図するところは、誰にも伝わらず・・・・
3
このあまりにも時代を先取りしすぎたこの試みは、とーぜんサティ以降あんま流行らんかって、頓挫します。が、時代が昇り、録音/再生機器の発達した世となりまして、思想家であり音楽家のブライアンイーノさんて方が発表した歴史的なアルバムによって再びこの試みは掘り返され、『アンビエント』という名を冠され音楽史に確かなジャンルとして確立されたのであります。
Ambient 1: Music for Airports - 1/1
空港と言う環境において鑑賞されるのではなくレイアウトの一部として機能するようにデザインされたこの音楽は、しっかし、本家エリックサティよろしく、やはり鑑賞に堪える・・・てか、なんつーのかな。鑑賞と聞き流しのハザマつーのか。うつらうつらしたり、本を読んだりして、ふと春風のそよぎが肌に触れる、青葉の匂いが鼻っ先で遊ぶ。なんとなしに「あ、いいな」と気がつく。それに似ております。用法としては。試しに一度これをかけて御覧なさい。そいで、別に聴く事なしにほっぽらかして、まま、お掃除でも読書でも何でもよーござんすけど、音楽の事なんか基本忘れて普通に生活を・・・。するってぇと、ふっとした時、行動に隙間が出来ますわな。例えば読書なら、ページを捲った瞬間とか、つらつらと文字を追って、詠み終えてページを捲りそいで。と、その「と」の一拍前の瞬間。
因みに、この「と」ってのは、アタシは文章を書くときに便利でよく使うんですが、この「と」って時の一拍前は何も無いんです。なにもない隙間があって「と」となる。「と」で隙間を強調しているのですな。果たして伝わっているか・・・ままよろし。
えーそいで、その「と」の一拍前のところに件かけていた音楽が忍び込み。ええ、聴くんじゃありませんよ、ふっと耳に入り込むんで御座いまして、その瞬間先にたとえた青葉は香るが如し耳の中でふわっと膨らみます。
緩急、何でもかんでも緩急が肝心だと。縮める伸ばす。つまりこの場合「読書をする」って目的にまっしぐらで縮まっていた意識が、意識せざる良音を聞いて緩むのですな。そいでリラックスしまして、まま新たに読書をみずみずしい感じで、フレッシュばってんと始められるようになるのでは、あーりませんかと。
ままそんな感じで。
私信
先達ては宮沢賢治の『春と修羅』を、あたしのブログが切欠で気に入っていただけたと言う事で。とてもとてもうれしく思ってましたが、生来の不精と後天的な腰痛もちの重い腰がたたって、上手い具合にアクションをとる事が出来ずに、宙ぶらりんのままなんとなく時間だけがすぎてしまいました。
今この場で上記の旨を伝えたく記す次第で御座います。